2013年9月12日木曜日

坐禅や瞑想修行をもっとやりたいと思っていた(いる)方々

いきなり話題が飛びます。

わたしのようなゆるい仏教ファンでも、「もっと坐禅や瞑想をする時間が欲しいなぁ。」と思うことがあります。仕事や家庭の事情で同じような思いを抱いている方もたくさんいるのではないでしょうか?

そこで、と言うにはあまりにレベルの違う方々ですが、そして種々の事情もあまりにも違いますが、以下のお二人も そういう思いをなさっていた(いる)ことを本を読んで知りました。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)


言わずとしれた三蔵法師です。

岩波新書、前嶋信次著、「玄奘三蔵 -史実西遊記-」の179ページから














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  「九月二十日に、玄奘は少室山の北の少林寺に引退したいと願い出た。その理由は、はや六十歳に近く余命もいくばくもないように思われる。若い時から法を求め師を尋ねて遠く遊び身力疲れ竭き、特に最近は衰弱を加えて来た。西域で得た経も早や六百巻を訳了した。煩悶を断伏するには「定」と「慧」が必要で、この二者は車の両輪の如きものである。経論を研究し、法の奥義に通ずるは慧の学、林中に禅座して修行するは定の学である。自分は若年から教義の研究に全力を傾けて来たが、定の学は十分ではなかった。願わくば幽寂な自然の中に退き、鹿や鶴を友として彼岸に達する準備をしたいと云うのであった。
  少林寺に住みたいとは、インドから戻った当時からの玄奘の望みであった。しかし、今度も、この希望は容れられなかった。
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このページに至るまでの内容をみれば、三蔵法師が自分を捨てて長い長い間仏教のために尽くしてきたかがわかります。望みをかなえてあげられればよかったろうな、と思ってしまいます。この7年後に玄奘は亡くなります。

 

ダライ・ラマ14世


ダライ・ラマと聞くと政治的な存在という印象が先に立つ人もいるでしょう。でも、ダライ・ラマは、政治家であるより先にもっとも尊ばれるべき現在の仏教徒のひとりだと思います。

文春文庫、ダライ・ラマ著、山際素男(訳)、「ダライ・ラマ自伝」の324ページから









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静修を行う目的は、心おきなく内的向上に自分を集中させることにある。概してわたしがそれに専念できる機会はきわめて限られている。ときには一ヶ月間なんとか行ったこともあるがたいていは年に二回、一週間ずつ行えればいいほうだ。一九七三年に、どうしても三年間の静修生活をもちたいと思ったが、諸々の事情がそれを許してくれなかった。だが今もいつかその願いを果たしたいと思っている。だからその間は、自分で名づけた、”バッテリー交換期間”で間に合わすしかない。一週間では目立った進歩は期待できないが、充電するには十分だ。あるところまで心を鍛えるにはもっと時間がかかる。そのゆえにわたしは未だ精神の熟達段階では初期的だと思うのである。
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チベットの現状とその立場を考えれば、三年間の静修期間をダライ・ラマ14世がとることができる日が近い将来来るとは思えません。菩薩を目指すからには自分の修行は後回し、ということのようです。いつかダライ・ラマ14世が心おきなく自分の修行に打ち込める日が来ますように。

ちなみにチベット仏教も魅力的ですが、現状では宮城県近辺にチベット仏教を正式に学べる拠点はないようです。