2014年5月31日土曜日

イスラム教と妙好人

イスラム教にも真宗の妙好人にあたる人がいるそうです


以前妙好人を紹介した際に、キリスト教にも真宗の妙好人にあたる人がいるとの指摘があることを紹介しました。


イスラム教についても同様の指摘があるのを見つけました。

イスラム教の修行とはどういうものなのだろう?という興味から下の写真の本を読みました。英語の勉強がてら英語版を読みましたが、宗教全般およびイスラム教の専門家が翻訳した日本語版を参照することで、より正しく深く理解できたと思います。



Sheikh Khaled Bentounes "Sufism The Heart of Islam"

シャイフ・ハーレド・ベントゥネス 中村廣治郎 訳 「スーフィズム イスラムの心」



この日本語版の第6章「霊的修練」の「マジュズーブ」(P133〜)から部分引用します。

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スーフィズムには、マジュズーブ(神に酔える者)と呼ばれる、恒久的に神的酩酊の状態にあって尋常でない人が存在する。彼らは他者を導くことはけっしてできない。この問題について問われたシャイフ・ハーッジ・アッダは言っているー

ある人が一杯の妙薬を飲む。その甘さに魅了され、もう一杯、さらに一杯と飲み続ける。飲めば飲むほど、さらに飲みたくなる。しかし、ある瞬間、彼を取り巻くすべてが回り始め、そして自分は十分に満足していることがわかり、そこで彼は止まる。彼は地上に転がることなく酔を知ったスーフィーである。彼は映画のスクリーンを前にして光源の方に視線を投げるような人である。マジュズーブとは、地面が回り出すまで飲み、さらに彼自身が地面と一緒に回るまで飲む(原文ママ)。彼は常に酔っていて、道でふらつき、酩酊の生活を送っている。すべては回り、大地・世界の運動の中に自己を失い、すべてとともに回転し、自分がいかにすべてと一体であるかを知り、すべての中に自分を見る。スーフィーはときどきそのような状態に陥るが、マジュズーブは常にこの状態にいる。一方はときどき酩酊するが、他方は常に酔っていて、常に光源の方を向いている。スクリーンに背を向け、光の中で自らを燃焼させているのである。

(中略)

この人たちは地上に何の愛着ももたない。彼らには家庭も子どももいない。どこにもいるし、どこにもいない。彼らの言葉は見かけは不可解である。彼らは別の次元に生きており、したがって彼らとの対話は困難である。彼らはまた、口に出せずに混乱していた人が恥ずかしげに隠している秘密を、公然と暴露する挑発者でもある。彼らを真面目に受け取らない人びとは、彼らを「神の狂人」と呼ぶ。彼らは狂気の中に隠れているが、神的酩酊と呼ばれる知恵の中に完全に根を下ろしているのである。ただ時に常軌を逸するが、それはマジュズーブのアブドッラー・ファーイド(神に溺れた僕(しもべ))のあのすばらしい話が示すとおりである。私はそれを私に伝えられたまま、文字上のあるいは綴り上の欠陥を含めて、ここに紹介する。それは微妙な形で、善と悪とのあの不断の戦いの始まりに私たちを連れ戻すであろう。

(中略)

神によって生かされ、私たちの理性の働きを解体する稲妻のような輝きによって人に問いかける自由な人間、マジュズーブとはなんと驚くべき人間であることか。シャイフ・ハーッジ・アッダは言っているー
花はそれぞれ自分の香りをもっている。
各人はそれを感じ取る力をもっている。
花が香りを出すことを否定する者は、
自分には嗅覚がないことを
認めるのがより賢明である。 

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妙好人とは違う部分、例えば「彼らは他者を導くことはけっしてできない。」などもありますが、何か共通したものがあるようにも感じます。


巻末の「訳者解説」(P245)で中村廣治郎氏は以下のように「マジュズーブ」と「妙好人」との関連を示唆しています。

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むろん、通常の現実の人間はこの「普遍的人間」の状態からは程遠く、自我に囚われ、現世の多様性に惑わされて生活している。そこで必要なのが、自我を否定し、本来の自己に覚醒するための教育と実践である。目指すはファナー(自我消滅)体験であるが、それは、雨水がすべて大海の中に流れ込み、一体となるように、「純粋絶対者」との一体性を実感し、本来の自己を再発見することである。
しかし、スーフィーはこのファナーの状態からやがて元の日常生活の状態に戻ってくる。そうせずに「酩酊」の状態のままでいる人もいる。彼らは「マジュズーブ」(「神に酔える者」、イスラムの妙好人?)と呼ばれ、本書で紹介されているように、日常生活ができないのである。そこに戻るには、善悪を示すルールを知り、自己と他の区別がなされねばならない。仏教的に言えば、分別の世界である。スーフィーがこのような日常生活に戻るといっても、それは以前と同じ状態で戻るということではない。自我が戻るといっても、それは無分別の分別である。存在の基本的一体性に覚醒した後では、自他や善悪、言葉による分別はあっても、それは仮のものであり、そこには以前の絶対性はない。自我といってもそれはあくまでも仮のもので、神の中に包摂された大我なのである。

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わたしが同書を読んでいて、妙好人の逸話を連想した箇所を紹介します。ここはマジュズーブではなくてスーフィーの話です。(「スーフィー」は「イスラム教神秘家」と訳されているようです。)

第1章「徒弟時代」からP23

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(覚醒)(Realisation)について語る場合、そこにはさまざまな段階がある。人はそこでさまざまな内的状態を発見する。彼はそれらを身体、思考、精神で生きるのであり、ついには神の瞑想に完全に没入し、それ以外のものの幻視すらなく、神の中に完全に住するようになる。いまやどちらを見ても、そこに神がいる。それは、メッカまで長い旅をし、疲れ果ててカアバ神殿の方に足を向けてねむっているスーフィーのようなものである。一人の信心者が通りかかり、彼を揺り起こして言った、「汚い足を神の館の方に投げ出したりして、恥を知りなさい!」と。するとそのスーフィーは応えた、「兄弟よ、ではどの方向に足を投げ出したらいいのか、教えてほしい。神がいないところがあるのかね!」と。覚者はすべてに、またどこにでも神を見る。---

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前出の「妙好人」で紹介した楠恭(くすのききょう)著「妙好人を語る」P132から

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この話もそうです。
「庄松が富田(とみだ)村の菊蔵と三本松の勝覚寺へ参詣し、庄松が本堂で横になって寝た。菊蔵がこれを咎(とが)めて、『御本尊の前ではないか』と言うと、庄松曰く『親のうちじゃ、遠慮には及ばぬ。そういうお前は義子(ままこ)であろう』」

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このふたつの逸話に共通するものがあるのを感じました。