2014年9月26日金曜日

真宗本願寺派(西本願寺)仙台別院の常例法座

真宗本願寺派(西本願寺)仙台別院での聞法体験


※ 2015-12-15追記: その後、真宗大谷派(東本願寺)仙台教区でもウェブサイトが開設され、定例法話会を始めとする各種情報が掲示されるようになったことがわかりました。

以前紹介した妙好人について学んだ際に聞法を体験したいと思っていたところ、最近になって機会が巡ってきました。

真宗本願寺派(浄土真宗西本願寺)仙台別院では毎月10日の13:30~15:00に常例法座(法話会のこと)が開催されています。






仙台市内中心部という立地としては広めの敷地内には、十数台のクルマを停めるスペースがありました。しかしながら同寺はボランティア活動の拠点(東北教区災害ボランティアセンター)でもあるため、自家用車を直接乗り入れるのは遠慮したほうが良いように感じました。バス停がほど近くにあって便数も多い場所です。わたしは歩いて5分ちょっとの場所にコインパーキングの空きを見つけて利用しました。




わからないことは玄関入ってすぐにある受付にいた女性の方が、とても親切に教えてくれました。法話の前にお勤め(おつとめ:読経のこと)があります。お経の本は貸してもらえます。

聞法に参加していた方は10数名で高齢の方がやや多かった印象です。席につくと親しげに話しかけてくれました。わたしの家の近くで聞法できるお寺があることも教えてくれました。

ある年配の方からは、本願寺派(西)の寺でも大谷派(東)の寺でもかまうことなく聞法するのが良いというアドバイスを頂きました。

これまで訪れた禅宗のお寺と比較したとき、ここは賑やかで開放的で暖かい雰囲気があると感じました。真宗のお寺は皆こういう雰囲気なのでしょうか?

ちなみに真宗大谷派の東北別院をはじめとして(訂正:最上段参照)他にも定期的に法話を聞けるお寺はあるようなのですが、ネットで検索しても情報がすぐには出てきません。そういうお寺は、実際に足を運んで門前の掲示板を見る必要があります。

経本の下段には音階がシンボルを使って示されており、お経を読む際の独特の節回しもこのシンボルを見つつ他の参加者の声に合わせることで比較的容易についていくことができました。


この日の講師は神奈川県川崎市にあるお寺の住職様でした。

法話の主題のひとつは「かたち」でした。内容の一部を紹介します。

・本来いろもかたちもない、こころもおよばず、ことばもたえた法身(阿弥陀如来)の姿を仏像として形に表す(方便法身と呼ばれる)ことの意味。

・故人に「会う」機会や場所としての「ここ」も「かたち」に関わることです。幼稚園時代に災害で友人を亡くした小学生が「ここに来れば会える...。」と話すときの「ここ」は幼稚園の献花台です。

・心を伝えるための言葉や態度も、大事な「かたち」です。法事や儀礼も心を表すための「かたち」です。

・「かたち」は大事ですが、形にするときに嘘をつくことができます。形にとらわれずに本当の姿を見ることが大事です。

等々

乾いた大地を潤す慈雨のようなお話でした。聞いて良かったと思いました。


自分が子供の頃から漠然と抱いていたお寺のイメージの二本柱は「修行」と「説教」です。


法話は説教にあたるものでしょう。以前紹介した岩波文庫の寿岳文章編「柳宗悦 妙好人論集」P74~88には「真宗の説教」と題した部分があります。ここから印象深い箇所を拾ってみます。

・指導者を善知識というが、その正しい善い知識の導きを得ることの一つは、教えを聴聞することである。

・少なくとも仏法と民衆とを固く結ぶためには、説教が必要だと思われる。何故多くの宗派はこのことに冷淡なのであろうか。

・語られる「真理」を聞きにゆくので、「人」を見定めに行くのではない、ここに真宗の説教の著しい面目があるのである。

・だから仮りに同じ事を聞かされるにしても、それを新しく聞く想いで受け取る。ここがとても素晴らしい聴き方だと私には思える。蓮如上人が、「一つことを聞いて、いつもめずらしく初めたるように、信のうえははあるべきなり。ただめずらしきことを聞きたく思うなり。一つことをいくたび聴聞申すとも、めずらしく初めたるようにあるべきなり。」

・これがために真宗の説教場は、ただ納得する理屈を冷静に聞きに行く場所ではなく、その説教節に自らも乗り、感動し感謝し、深く宗教的情緒に浸りに行く場所なのである。教えを「知り」に行く処ではなく、「感じ」に行く所とでもいおうか。


自分にこういう聴き方ができたかどうかは疑問ですが、感じることは多少ながらできたように思います。


坐禅も良いですが、念仏宗も魅力的です。