2015年8月28日金曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク No.024 Sati ~今、この瞬間に気づく~(音声から文字起こししたもの)

これはYouTubeの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。


そのような状況でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します


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sati~今、この瞬間への気づき~
(タイトルは「Sati ~今、この瞬間に気づく~」となっています)

サティ(sati)とは「気づき」である、と言われます。

では、私たちが身のまわりの現象に気づいているとき、サティは、心に本当に生起しているのでしょうか?

私たちは、どうやったら、サティを日々の瞑想に活かしていけるのでしょうか?

例えば、深い禅定に入っているとき、サティは圧倒的な力で働いています。

誰かに対して、慈しみの思いを喚起させているとき、やはりサティは、力強く生起している可能性があります。

反面、私たちがいくら呼吸に専注しようとしても、サティがきちんと働いていなければ、すぐに飽きてしまうでしょう。

いくらラベリングをしても、そこにサティがある、という保証は全くありません。

いくら自分の体や心の動きを客観的に見つめているつもりでも、そこにサティがある、という保証は全くありません。

気づきの瞑想、気づきの瞑想、といくら頑張っても、うまくいかないときは、うまくいきません。

サティは、善なる心の働きです。

お布施をするときでも、お経を読んでいるときでも、瞑想修行をしているときでも、どんなことであれ、善行を行って、善なる心が生起しているときには、必ずそこにサティがあります。

私たちがサティを正しく理解し、上手に活かしていけば、どんなタイプの善行をやっていても、とても大きな成果を得ることができるのです。

ではどうやって、本当のサティを身につけることができるでしょうか?

サティを理解するためには、まず、サティでないものとは何か、を理解します。

サティでないものとは何ですか?

何がサティの土俵ではないか、そして、何がサティの対象ではないか、を調べれば、サティでないものがわかります。

何がサティの土俵ではないのでしょうか?

サティが生じることができない土俵とは、貪り、執着、慢心、怒り、嫉妬、物惜しみ、不安、後悔、攻撃、批判、眠気、倦怠感、やる気の喪失、落ち着きの無さ、普段より軽率な思考や判断、などの心です。

これらはみな不善心ですね。

もし、これらのうちの一つでも、心の中に生じていたら、そのとき、私たちの心にサティが生じることはありません。

なぜならサティは、これらの心と同居することができないからです。

つまりサティは、善なる心が生じているときにだけ生起する、不善な心が生じているときには、サティは決して生起することができない、ということが言えるのです。

では次に、サティの対象でないものとは、何でしょうか?

三つあります。

その一

一瞬以上前に遭遇したり、経験した一切のもの。

一分前の会話、昨日会った友達、五分前に感じた嫉妬、ずっと欲しかったバッグ、過去の経験、思い出、記憶。

それがたとえ三十年前のものでも、一秒前のものでも、完全に私たちの頭から、追い出す必要があります。

ひとつ前の息はこうだった、この前の瞑想のとき、こんな感じで息を吐いて、すごくうまくいった、なども、すべてだめです。

過去の記憶は、それが五感の記憶であろうと、感情の記憶であろうと、すべて頭から完全に追い払う必要があります。

その二

まだ現実化していない一切のもの、一切の期待、一切の不安などですね。

それらはサティの対象にはなりません。

ですから、私たちの頭から完全に追い払わなくてはなりません。

今この瞬間までに現実化していないものは、すべてです。

明日の楽しい食事会を想像したり、今日中に終わらせなくてはならない仕事を前にして憂鬱になったり、月末の支払いにお金が足りないと不安になったり、老後の生活を考えて絶望的になったり。

でも少なくとも瞑想をするときだけは、良いことも悪いことも、すべて頭から追い払うことが必要です。

息を吸っているときに「次に吐くときは、もっと静かに滑らかに吐こう。」と思うこともだめですね。

その三

一切の概念、思考。

特定の経験と結びついていない純粋な概念や思考は、時間に属しません。

これをパーリ語では、カーラウィムッティ、時間に縛られないもの、というふうに呼んでいます。

例えば相対性理論も概念ですし、無常、苦、無我の見解もまた概念です。

サティ瞑想はこのようにやる、こうやって、ああやって、というのも概念です。

これら一切の概念や思考は、サティの対象とはなりません。

ですから、今すぐ、頭から完全に追い出す必要があります。

まとめてみましょう。

まず、心が不善なときは、サティは生起しない。

サティを生起させたいなら、善なる心が生じていなければならない、ということですね。

そして、今この瞬間よりも、一瞬でも前に起こったことの記憶、今この瞬間までに現実化していない、将来の期待や不安、そして、一切の概念や思考、これらはサティの対象にはならないということです。

ですから、今すぐ、頭から完全に追い出してしまいましょう。

私たちは普段、記憶と、期待と、不安と、思考の世界に生きています。

なんのことはない、全部、サティでないものですね。

そんな生き方をしていると、今この瞬間、自分が経験しつつあることを、気づきをもって、ていねいに見つめることができなくなってしまうのです。

忘れていないつもりが、どうしても、おろそかになってしまうのです。

サティとは、今この瞬間を、生きることです。

前も後ろもない、過去も未来もない、今この瞬間の現実。

それがサティの対象です。

どうですか?

毎日少しの時間でもいいですから、こういう視点で、体や、心や、身のまわりの現象を、見つめていこうではありませんか。

次回の原始仏教トークでは、皆さんにサティをよりよく理解して頂くために、サティについての、ガイドメディテーションをやってみたいと思います。

楽しみにしていてください。

それではまた、お会いしましょう。

(以上)
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