2015年11月7日土曜日

禅僧の慈悲--陸奥七戸で慕われた性西法心(しょうさいほっしん)

    (※ 追記: 2015-11-10 近代デジタルライブラリーの元亨釈書のサイトへのリンクを追加)

奥州松島青龍山円福禅寺(瑞巌寺)の開山として、地元ではよく知られた法心は、臨済宗の禅僧でした。天台宗の松島寺から臨済宗の瑞巌寺に改宗したときの住持第一世です。

その法心が、瑞巌寺を去った後に滞在した七戸地方で地元に貢献し、人々に慕われるようになった話を紹介します。

号名は、法心、法身、性西、性才、等複数ありますが、下に紹介した「法心覚了無一物」の268~270ページによれば、性西法心が正しい号名です。

新読書社発行、鈴木常光著
「法心覚了無一物-法心禅師真壁平四郎の生涯」
1969年6月5日発行の初版

この話は左の写真の本から引用するものです。

ここで、本文最初に、「法心を語る記録につい
てという項目があります。抜粋しますと、

法心を語る文書については、元亨釈書(げんこうしゃくしょ)、延宝伝灯録、本朝高僧伝、扶桑禅林僧宝伝、沙石集などがある。.........そのほかには彼の生涯を語るものはほとんどない。わずかに瑞巌寺にあるものは、古文書とはいっても江戸時代あたりに、寺として必要にせまられて語り伝えられているものを書いたと思われるものである。これを原本にして、真壁伝正寺、洞内法蓮寺にも脚色したらしいものがある。
そのように生涯の記録は全くない。.......また「雑談集」なども、法心の動きをとらえるポイントになっている。..........このような見方で書いた法心伝なのであるが、史料が乏しいので、読んで頂く方に納得しかねるところがあるかも知れないが、これはお許し願いたい。......
そのような意味で、法心伝を書くためには歴史的古書、説話、昔話、物語的な要素を持つ歌謡などまで、比較、対照させながら法心についての少ない資料に肉づけして、彼の生涯をまとめてみたものである。
また筑波山麓に伝承される伝説、昔話、説話などから、歴史にのこされてはいるが、あまりに地方的なことなので知られていない事実なども、法心の時代とその生活した環境を知るためにできる限りあつめてみた。
  ------  それでは以下に、P131~147から抜粋(一部省略)して引用します。  ------

法心は奥州松島青龍山円福禅寺を開山してから三年目、ようやくその基礎ができ上がると、松島をあとに、いずこへか姿をかくしたのでした。これは二度目の遁世のためだったのです。

法心が松島を去ったのは、その改宗開山が成功した栄耀を求めなかったためといわれていますが、一説には、天台衆徒の一部のものが、圧迫したためとも伝えられています。

いずれにしても、松島における法心は、その改宗開山の祖として、臨済宗の青龍山円福禅寺から、瑞巌寺と寺名は改まってはいるが、現在に至る法灯のゆるがぬ礎をつくられたのは事実であります。

七戸(しちのへ)の草庵


松島を去った発心は、あてもなく足を北に向けて、旅をつづけました。この世間から、すこしでも遁れようとするには、北の果ての未開の地へ行くよりほかに、方法がないと考えたのでしょう。

何日も、何十日もかかって、行く雲、流れる水、名も雲水の急がぬ旅、一笠一鉢、一本の柱杖をたよりに、七十四歳の老僧の果てのない旅はづづけられたのです。

法心がようやく足を留めたところは、現在青森県上北郡七戸町の、中野川の上流の河原でした。

この七戸というところは、文治五年(1189)、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討ったとき、その戦いに功のあった、甲州の南部光行にその功賞として陸奧国の九戸、閉伊、鹿角、津軽、糠部の五郡を与えたところです。

光行の三男朝清が、この地方の領主となり地名の七戸を氏の名として、七戸氏を名乗って七戸太郎と称しました。この頃の七戸地方は、馬を飼育することがあるだけで、ほかには何の産業もなかったのです。馬の飼育は放牧していたもので、すでにその頃までにも数多くの名馬が産出したことが伝えられています。

いまから七百年以上も前のことですから、ちょっと想像もできません。北の果の十和田湖に近い高地ですから、住んでいた人もわずかだったでしょう。この人達は、山や野に馬を放牧して生活していたのでした。

その当時のこのあたりは、かしわやしだの原野であったといわれています。

人里はなれた中野川の河原にやってきた老僧は、自分の手で庵を建てました。
それは名ばかりのもので、柱は皮のままの丸木を掘立て、屋根は近くで刈りあつめたかやをのせ、かべなど勿論ありません。ささやかやをふじつるでむすびつけました。床などあるわけがなく、かややすすきを敷いた、家畜小屋より粗末なものでした。それでも法心にとっては瑠璃殿のような伽らんよりも住み心地のよい庵だったのです。

松島で多くの侍僧にかしずかれた毎日、厚い温い布団の寝床、それは何十日か前までの法心の生活だったのですが、その住持中にもみにくい貴族や、武士たちの権勢の争い、正しかるべき禅門にも入りこもうとする邪悪なぞを見せつけられてきました。

そのころ名のある和尚たちの中にも、武家や貴族から、たくさんな贈りものを受け、庶民だちを見くだして、多くの侍僧にかしずかれて、豪奢な生活をするものさえありました。

こんな世界をのがれてきた法心は、河原の庵に、それこそ何もない無一物、赤貧洗うが如きといいましょうか、折脚とう(遁世のこと。「とう」金偏に當)(遁世のこと)の生活がはじめられたのです。

その毎日は、徹底した清貧の生活ですが、そのなかにうかがえる透徹した悟境は、ほかに比べるものがないと思われます。

河原の堀立て小屋に住む老僧を、付近の人々は、はじめはものめずらしく眺めていました。老僧はときどき托鉢にも出かけましたので、付近の人々とも、だんだん仲よくなってきます。そのとき貧しい農家の人々が施してくれる一握りの粟やひえなどは、いたく法心の心をうったのです。それは豊かでないくらしの人々の心の中に灯もる、あたたかい火でした。

法心はこの貧しい人達のために、心から仏の加護と功徳を祈ったのでした。

--- 中略 ---

大悟徹底した法心の内に秘められている光は、いつまでも隠しておけるものではありません。村の人々も顔なじみになってくる。いつの間にか、不幸や、心配ごとがあると相談にやって来るようになりました。もともと教禅兼修した方ですから、祈祷(「祷」は古字体)などもしてあげられるし、いろいろと経験が豊富だから貧しい人達のためになることは、なんでも相談にのってあげました。

ときには、法の話なども村人の招きですることもありました。

ここ七戸地方は、地の理が悪いので、文化的な面でも、政治経済的な面でも、非常に開発のおくれた地方ですから、仏教などの布教も随分おそかったようです。

この地方で古い寺院は、祥雲山瑞竜寺や竜泉山竜泉寺などがありますが、何れも永禄とか天正の頃の建立ですから(16世紀後半)法心が遁世したころには仏教は布教されていなかったでしょう。

こんな時代の七戸地方の村々の人達と、法心との心の通う温い接触がはじめられたのでした。

法蓮寺開山


しばらくたったある年、七戸地方の豪族で洞内(十和田市)に住む、洞内由之進という人が法心の庵を訪ねてきました。

そして法心から、いろいろと教えを受けているうちに、このような立派な和尚を、庵に住まわしておいてはもったいない。小さな寺でも私の心をこめて建立する寺に来て、この地方の人々を指導して下さい、と願ったのでした。法心も洞内由之進の心に感じ入って、寺の開山を心よく引き受けました。

この寺は、池福山法蓮寺と呼ばれ、いまも十和田市洞内に残っております。

法蓮寺は現在は洞内の館(タテ)という部落にありますが、建立当時から約四百年間は、洞内の茶屋という部落にあったといわれています。その茶屋部落の入口に、浄土橋というのがあるのも、その名残でしょうか。

この地方に語られている伝説について次にのべてみましょう。

七戸町発行の郷土史「七戸の文化財」に書かれている法心伝説は

「五庵河原(ごあんかはら)と大銀南木(だいぎんなんき)」

臨済宗の古今の名僧法身国師の住地と手植の銀杏。中野川上流七戸在銀杏木にある。
同僧はもと真壁の城主左衛門尉経明の下男で平四郎といった。主のために下駄を暖め却って辱めを受けたことから発奮、入宋して修行すること多年、悟りを得て帰国後奥州に下り、松島に隠世中、北条時頼に見出され、瑞巌寺の住職に任ぜられたが、後日の栄耀(えいよう)を嫌って遠く草深き七戸の、今銀杏木と呼ばれる地に退いたのは、今から七百余年のことであった。
それと知った経明は深く前非を悔い、国師の徳を慕い、主従四人この地に来り、国師と共に五つの庵をつくり、求道に入ったので人呼んで五庵河原と称したという。
国師は後、洞内由之進に聘(へい)ぜられて、洞内に至り法蓮寺を開き、多数の僧俗を教化したが文永十年(1273)入寂せられた。
五庵河原には国師の結んだ庵の礎石と井戸が残っており、当時の模様をしのばせている。
手植の銀杏木は、七百余年の樹令を数えて樹高二十六米、幹囲十二米余、樹相雄大、うっそうたる夏の緑と秋の紅葉は、四周の風情と呼応して、一大景観を呈している。
幹及び太枝からは多数の乳垂がたれ下り、地に達し枝からは新芽が出、子樹として生々と成長している。
なお同所には有志の手による法心国師記念碑があり、また洞内には、客僧田(きゃくそうでん)、袈裟(けさ)掛けの松、法心塚、及び師弟互に刻んだという法心国師像並に経明(道無と号す)の木像がある。
大町桂月の歌
おなじくも履物取りし身の上は 猿は太閤 真壁は国師
以上が七戸に伝えられる法心国師伝です。真壁に伝えられる話と同じ形であるが、城主の名や、事件の順序が多少違っています。

これはある時代に、法心を顕彰しようとして作ったものでしょうから、地方によっての違いは止むを得ないでしょう。

この原作は大町桂月(明治から大正のころの文学者)の著「桂月全集」に収められてある「下駄の恩」の一文で、これが大正十四年から昭和十年頃までの中学生用の文部省検定国語読本にのせられていました。

ここで興味をひくのは、五庵河原の伝説で、その全部が真実として考えることはできませんが、注目されるのは、ここに法心の第二の遁世があったということです。

松島を去ってから、ここに遁世したということは、法心を知るために、極めて重大なことであるからです。

現在の法蓮寺は江戸時代に、茶屋部落から移転してきたといわれます。当時は相当に大きかったらしいのですが、いまはそのころをしのぶものは、参道の杉の大木の並木ぐらいで、寺の建物などは、その面影もありません。

法蓮寺の近くにある法心塚には、法心の墓といわれる塔があります。この墓石には、応仁二年十月十二日「開山法心諸大和尚」と刻まれてあり、法心入寂とは相違しているのです。これは何の理由によるか、詳らかではありません。

法心塚から数百米はなれた国道四号線の両側に、数十丁にも及ぶ水田がひらけてみられます。この中央部が「客僧田」と呼ばれた、法蓮寺の寺田であったのです。

この水田の中央にある老松は、これを「法心袈裟掛けの松」と称しています。

「客僧田」についてのべてみましょう。

法蓮寺が開山されると、法心の高風を慕って、参禅したい、教えを聴きたいという人々が、たくさん訪れるようになりました。

そして名声は陸奥一円に知られるようになり、「僧俗を問わず、参禅の徒は月を重ね、年を改むるに従って其の数を加う」と伝えられています。

洞内由之進は、参禅の人々が多くなり、そして寺がにぎわって盛んになるのを喜び、寺をさらに拡張したり、土地を寄進したりしました。

当時のことですから、法蓮寺はこの地方の人々の文化センターのような役目を果たしていたのでしょう。洞内由之進もこれには満足していたこととおもわれます。

法心は、寄進された原野を、参学の衆徒のために役立てたいと考えて、修行の衆徒たちと共に、行の傍ら、原野を開墾して稲をつくる水田をひらいたのです。そしてそこから収かくした米を、修行に参じた人々の食糧としました。ここ法蓮寺の禅の修行にも、作務として米をつくる仕事が加えられたのです。

この水田が今も伝えられる「客僧田」なのです。

禅の修行の中の作務について、こんな話があります。

--- 中略 ---

善の修行で作務の大切なことは、百丈禅師の話などにも説かれていますが、法心が開発した客僧田は、作務の大切さのほかに、非常に重大な意義があると思われます。いまから七百年も前のころの、陸奥国の洞内地方の高地で、しかも寒冷の地に、稲作水田が開発されたということは、注目されてよいことです。

このことについては、青森県文化財専門委員の盛田稔氏は次のようにのべられています。
法心の開いた客僧田は、七戸地方における稲作水田の最も古い歴史的のもので、それ以前には、この地方に残された古文書や、歴史のなかに「田」の文字は見当たらない。法心はこの北国の高地で米をつくることを教えた最初のひとと言える。
水田をつくるためには、土木的なこと、水利のこと、農耕の技術なども知っていなければ、容易にできないことです。

文化・教養などの面からも考えてみましょう。

京都や鎌倉においては、禅宗が文化・教養面の発展興隆に及ぼした影響は大きいものがありました。しかし未開発の七戸地方の人たちには、文化とか教養などはおろか、仏教さえ尊いものではあるが、高根の花であったと思われます。このような環境で、めぐまれなかった人々に、法心は禅の門を開き、文化・教養の面でも、彼のもつものすべてを開放して、この地方の人達の生活の向上のために、役立てたのでした。

また法心は天台、真言にも通じていたことは、この地方の人達にとっては、力強い存在であったと思われます。

この地方の人達は、いまでも「法心さま」と呼びます。なんともいえない親しみをもった「法心さま」の呼び名とともに、法心への敬慕の心は、脈々と流れ伝えられているのです。

九月の初旬、農家がこれから忙しくなるという前の一日、この洞内地方にひらかれる祭りに「法心祭」があります。この日のために、前日から家々の軒先には、祭のちょうちんがさげられ、法心塚の入口には、大きなのぼりが「法心国師」の名を高々とひるがえします。

村々の人々の手で、法心塚は清掃され、公民館などに演芸の会場がつくられます。そして祭の当日は、一日仕事を休み、子供たちから老人まで法心塚に詣り、法蓮寺に法心の像を拝かんして、素人演芸をたのしみます。

この地方の歴史研究家の法心についての関心はきわめて深いものがあり、彼の布教を「足跡即教化」とさえ讃えています。

これについて盛田稔氏はつぎのように語っています。
法心は青森県の開発者として、古い歴史的人物のひとりである。南部氏にしろ七戸氏にしろ鎌倉時代の知名の人が、いつどこに姿を現わして、世のために働いたかはあきらかでない。
七戸地方は南部氏や七戸氏がここまで来て、地方を開発したり、政治を行なったということは詳かでない。鎌倉時代のことで、いちばんはっきり残っているのは、法心の事跡でありその頃の領主の名は知らなくても法心の名は知っていたとさえいわれる。
このような法心の遁世は何を語るものでしょう。

遁世の本義である「聖胎長養(しょうたいちょうよう)」が「自己の真性を見出して後、世俗的な生活の中に試みる」とか、「悟りをひらいたのち、その悟りを忘れる」とか、このような表現は、法心のためには必要のないものでした。

「心のままに足を運べば、これが教化であった」と、後世の人に伝えられている法心の姿こそ、真の仏の姿であったでしょう。

--- 中略 ---

法心真壁に帰り蘭渓道隆に会う


洞内の法蓮寺は、開山されてから隆盛をたどりました。僧俗を問わず、法心禅師の下に学ぶ人びとでにぎわったのですが、京都や鎌倉からは、はるかに遠い、北辺の未開地のことなので、その消息は中央には伝わらず、このすばらしい遁世も、歴史には書かれず、人にも知られることもなく、七百年もすぎたのです。遁世とはこれが真の姿かも知れません。

法心は、洞内の法蓮寺の法灯を弟子にゆずり、弟子の一人を供に旅に出ました。

これは文永四年(1267)法心七十九歳のときなのです。.

    ------- P131~147の引用は以上です。


ここまで読んでくださった方も、私同様に法心祭について知りたくなったのではないでしょうか?

現十和田市役所のウェブサイトから2012年(平成24年)4月号「広報とわだ」P16の「法心塚と袈裟掛けの松」を読むことができます。

2015年10月現在で、十和田市スポーツ・生涯学習課に電話で確認したところでは、現在でも法心祭は当地で行われているそうです。今年(2015年)には9月6日に、法蓮寺に洞内地区の人々が集って行われたそうです。時間帯はお昼を挟んだ数時間のようです。

Googleマップには「十和田市 法蓮寺」で検索すると法蓮寺の場所と航空写真が表示されます。

もしかすると、この祭には松島や瑞巌寺の関係者も出席なさっているのでしょうか?松島と十和田市の交流があっても良いですね。

自分は、松島の近くに住む者として縁を感じます。一度は十和田市を訪れて、法心祭を拝見し、法心禅師の徳を偲びたいと思います。

追記: P9末尾から
※一般には法心国師とか法心禅師といっているが、事実は国師号、禅師号があったかどうかは不明である。本文には歴史書のように敬称はすべて省略してある。
参考文献: 
・ 以前掲載した「松島と仏教」をご覧ください。
2014年11月初版発行、勉誠出版、村井章介編、東アジアのなかの建長寺」
左の写真の本のP229~230にに、松島寺の天台宗から禅宗への改宗についての記載がありましたが、性西法心については言及がありませんでした。
以上