2015年12月7日月曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.011-布施の極意Ⅱ~手放す喜び(podcastの音声から文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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前回は、布施のベースとなるのは、人と分かち合う喜びの心であり、自分の手元にあるものを独り占めせず、「人と分かち合いたい。」という行為が布施である、ということをお話しました。

まさに布施の根本とは、喜びの心です。

さて布施は、布施する物やお金が、布施する人にとってどんな価値を持っているかによって、三種類に分類されます。

どんなものでしょうか?

ある人々は、自分が普段使っているよりも値段の安い、低いスタンダードのもの、より価値の低いもの、より美しくないものを選んで布施します。

このタイプの布施は、ダーサダーナ、奴隷の布施、と言います。

こういう布施を行う人は、自分の所有物に対する執着の奴隷になっている、ということでこのように呼ばれるのです。

この種の人々は、布施をしようとするとき、未だ自分の所有している物やお金に対する執着が捨てきれず、物惜しみの心が思わず働いてしまうので、どうしてもそのような選択になってしまうのでしょう。

このような布施であっても、もちろん善行に変わりはありません。

しかしそのような、奴隷の布施、を行って、心が大きな喜びに満たされるということはありません。

また、そのような布施によって形成された善なるカンマの結果、クサラウィパーカ、善果(ぜんか)、もとても限定的です。

その布施の果報として、将来他の人から、自分に何かが与えられたとしても、それは、自分が期待している以下の、より低級な、安い、価値の低い、美しさにおいて劣ったものとなってしまうでしょう。

二番目の種類の布施とはどういうものでしょうか?

ある人々は、自分が普段気に入って使っているものと同等なもの、同じ程度の価値のもの、同じ程度の美しさのものを布施します。

このタイプの布施は、サハーヤダーナ、友達の布施、と呼ばれます。

自分の友人に気軽に何かをあげるように、気取らずに、ごく普通のものを布施するということで、このように呼ばれるのです。

このような布施はたいてい、気取りの無い、ちょっとした善意で、カジュアルな喜びをもってなされることが多いと思います。

この種の布施によって得られる善なる果報は、非常にすばらしいというほどのものにはなりませんが、納得できるレベルのものとはなるでしょう。

三番目の種類の布施はどうでしょうか?

私がミャンマーで修行していた頃、熱心な仏教徒達は、毎朝、私達比丘に、食べ物のお布施をしてくれました。

彼らは、例えば、市場で袋一杯のオレンジを買ってきて、形の整った、甘そうなオレンジを選りすぐり、それを、私達比丘に、お布施してくれるのです。

私達へのお布施が終わった後、自分達は、残った、形の悪い、傷がある、または部分的に腐ってしまったようなオレンジを食べるのです。

自分が持っている、あるいは使っている以上のもの、値段が高い、あるいはスタンダードが高い、価値の高い、より美しいものを布施する場合、その布施を行う人を、ダーナパティ、布施の名人、と呼びます。

それは、自分の持っている、あるいは使っているものと比べて、より良いものという意味で、絶対的な価値や値段のことを言っているのではありません。

百円玉を一個だけ持っている子供が、五十円でミカンを一つ買って、お坊さんに布施をしたら、それは例えようもなく気高いダーナパティなのです。

このような布施の行為によって得られる善なる果報とは、どういうものでしょうか?

ダーナパティによって得られる果報は、まさに計り知ることができないほどである、と言われています。

何千倍、何万倍もの果報として、布施をなした者に返ってきます。

予想すらしていないような、期待を大きく超える、非常にすばらしいものが、突然得られるかもしれませんし、あるいは、五官(ごかん)を通して、例えようもなくすばらしい感覚的刺激を経験することになるかもしれません。

その故に、布施のコツを知っている名人は、こういうタイプの布施、すなわちダーナパティ、を行うのです。

何か非常にすばらしいもの、非常に美しいもの、非常に得難い特別なものを布施すれば、それを受け取る人は、躍り上がらんばかりに、大喜びするでしょう。

それを見れば、布施をした人も、布施を受け取った人の喜びや幸せを共に感じて、とても幸せな気持ちになることができます。

受け取り手に大きな喜びを与える、このようなタイプの布施を行えば、布施をする人の心も、大きな幸せに満たされていくのです。

とても純粋な、善なる心が生起するのです。

布施をする人が、布施の行為の前、布施の最中(さなか)、布施をした後に感じる喜びは、ダーナパティ、布施の名人、の布施を行うときが圧倒的に大きいのです。

サハーヤダーナ、友達の布施、で得られる喜びは、それよりは小さいものになるでしょう。

また、ダーサダーナ、奴隷の布施、で得られる喜びは、決して満足できるものではありません。

どうですか?

皆さんも、誰かに何かを、純粋な思いであげたときのことを思い出してください。

自分がいつも使っているものと同等な、何かカジュアルな普通のものをプレゼントした瞬間、自分がいつも使っているものと比べて、どちらかというと劣る、あまり価値の無い、質の良くないものをプレゼントした瞬間、自分ではもったいなくて、とても使えないような、何か特別な、すばらしいものをプレゼントした瞬間、それぞれの布施の瞬間を、比較してみてください。

どのように感じたでしょうか?

三種それぞれの布施を行った瞬間の、心が感じる喜びの違いに気がつくことができましたか?

ダーナパティの布施、布施の名人の布施、を行うときの喜びが、圧倒的に大きいということに気がつきましたか?

ダーナパティの布施を行った場合に、皆さんが将来受けることになる善業(ぜんごう)の果報は、さらにさらにすばらしい、大きな喜びに満ちたものになるでしょう。

アングッタラニカーヤの巻の五、一の五の四、ラジャームンダの四、マナーパーダーイースッタ、受け取る側に喜びを与えるものを布施する者、というお経で、ブッダは、在家信者のウッガに、次のようにおっしゃっています。
受け取る側に喜びを与えるものを布施する者は、その果報として、それ以上の喜びを与えてくれるものを受け取るであろう。
善なる行為の本質とは、その行為の概念的な形式、例えば、布施をするとか、ご奉仕をするとか、瞑想修行をするとか、ということではありません。

善行の本質は、善なる心、すなわち、クーサラチッタが、どれだけ生起するかどうか、ということにかかってきます。

その行為の前、最中、後において、クーサラチッタが生起していれば、それが善行なのです。

布施においても同様で、何を布施するか、ということよりも、いかに清らかで、純粋な喜びの心をもって布施を行えるか、それが本当に大切なことなのです。

(以上)
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