2015年12月26日土曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.018-善業が作られる瞬間-福業事Ⅰ~布施によってつくられる善業~(podcastの音声を文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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今この世界で、自分がいる環境、置かれている立場において、善きカンマを蓄積して、今生において善き果報を得て、物質的にも精神的にも、より幸せになりたい、また、修行においても、大きな成果を得たい、さらにまた、来世において、より幸福な世界に、より善い転生をしたい、また、来世以降においても、引き続き幸せな果報を受けていきたい。

そう思いませんか?

どのような善行を行えば、そんな幸せな未来を作っていけるのでしょうか?

そのようなタイプの善行は、十種の善なる業の道、十善業道(じゅうぜんごうどう)、ダサクーサラカンマパタ、と呼ばれています。

十善業道の実践には、二つの側面があります。
まず第一に、十種の不善なカンマを形成する、十不善業道(じゅうふぜんごうどう)、と呼ばれる悪行を行わない。
悪いカンマを形成するような行為から離れる、という実践修行。
そして二番目は、布施、戒律護持、智慧の修行、という三種類の善行を、積極的に行っていくことですね。
布施、戒律護持、智慧の修行、という三種類の善行は、十種の、プンニャキリヤワトゥ、福業事(ふくごうじ)、としてまとめられ、多くの真摯な仏教修行者が実践しています。

今回から三回にわたって、十種のプンニャキリヤワトゥ、福業事、について解説していくことに致しましょう。

十種のプンニャキリヤワトゥは、三種の布施の修行、三種の戒律の修行、三種の瞑想と智慧の修行、そして最後に、全体を網羅する一つの修行、によって成り立っています。

今回は、三種の布施の修行について、お話致します。

プンニャキリヤワトゥの中の三つの布施の修行とは何でしょうか?

布施、廻向、随喜、の三行(さんぎょう)です。

まず最初は、布施、ダーナですね。

これはいわゆる、一般的に知られている、布施の実践です。

次は、廻向、パーリ語では、パッティダーナ、と呼ばれています。

パッティとは自分が既に得たもの、この場合は、福徳を意味します。

そのパッティを他の人にダーナする、ということで、廻向、パッティダーナ、となるわけです。

また、他の方にさしあげる、という意味の、アヌッパダーナ、という言葉と併せて、パッターヌッパダーナ、と呼ばれる場合もあります。

自ら善行をなし、それによって得られる功徳を、仏法僧あるいは一切衆生、あるいは福徳が足らずに苦しんでいる縁ある方々、あるいは既に亡くなった家族の方、などに布施させて頂くのです。

そして、随喜、パーリ語では、アッバーヌモーダナー、と言います。

他の方が得たものを随喜する、共に喜ぶ、ということです。

アッバーヌモーダナー、とは直訳では、大いなる随喜、という意味になります。

一つ前に出てきた、パッティ、既に得た福徳、と併せて、他人が既に得た福徳を共に喜ぶ、ということで、パッターヌモーダナー、と呼ばれることもあります。

他の人が、物質的にあるいは精神的にすばらしいものを獲得した場合、私達の心には、微細な嫉妬や物惜しみなどが生じることがあります。

自分が欲しかったものを他人が得れば、嫉妬が生じやすいですし、自分が得たもので、他の人に獲得して欲しくないもの、自分だけの特権としておきたいものを、他人もまた獲得した場合は、物惜しみによる不快感が生じる場合があります。

自分自身では認めたくはありませんが、私達の心には、このような醜い煩悩が、生じやすいのですね。

なぜ、そういう醜い心が生ずるかと言えば、その対象に対して、私達が強いロバ、貧欲、を持っているからに他なりません。

その心を手放せば、嫉妬も、物惜しみも、無くなります。

そして純粋に、他の方がすばらしいものを獲得したという事実を、共に喜ぶ心が生ずるのです。

この心は、とても崇高な境地です。

チェタスィーカで言えば、ムディターという心所(しんしょ)になります。

慈悲喜捨の喜にあたります。

こういう心を持つこと自体が、たいへんな善行となります。

随喜とは、他人が得たものや福徳を心から喜ぶ、という崇高な心を言うわけです。

布施の心とは、他人と分かち合うことを喜ぶ心です。

自分の持っているものを、他の人々と分かち合うという行為が、どれだけ大きな福徳をもたらしてくれるか、私達は本当に知っていると言えるでしょうか?

もし知っていれば、人と分かち合おうと思った瞬間、物惜しみの煩悩がパッと出てしまうことなど無いはずですね。

私達は、損をしたくないので、「人と分かち合いたくない。」と思います。

しかし実は、人と分かち合わないことこそが、損なのです。

得をしたくて、損することばかりをやっている、それが凡夫です。

本当に得をしたければ、まず人と分かち合うこと、これが、得をするための最大のコツです。

物惜しみという心、マッチャリヤというチェタスィーカですが、この物惜しみという心は、本当の疫病神です。

まさに、貧乏神なのです。

これが心に生起した瞬間、大きな損失が始まります。

私達は、いつもいつも、この煩悩によって大損をしているのです。

もし、物やお金や福徳の面で豊かになりたいと思うのであれば、私達は、物惜しみという煩悩が、心に生起することを、決して許すべきではありません。

例えば、地震や台風など、大きな災害に遭って、食べ物も底をつき、多くの人達がひもじい思いをしながら、助けを待っているとしましょう。

あなたはそこで、倒壊した自分の家の台所付近から、おにぎりを一つ発見したとします。

さあ、あなたならどうしますか?

もし、お釈迦様であれば、いや、お釈迦様に限らず、本当の仏教徒であるならば、自分のひもじさなどは、一切問題とせず、それを、最も必要としている人、体が衰弱して、立ち上がることができないご老人や、怪我をして苦しんでいる人や、幼い子供に、まず最初に与えるでしょう。

それを必要としている人達に分け与えること無しに、決してそれを口にすることはしないでしょう。

そしてそのことによって、近い将来、どれだけ多くの福徳が、どれだけすばらしい果報が訪れるか、想像することすらできません。

ひとかけらのおにぎりを、他人に隠れてかぶりついたとしたら、その人は、物惜しみによって、将来に豊かな幸せをもたらす大きな善行のチャンスを、棒に振ることになるでしょう。

お釈迦様の説かれたダンマを思い、善行がもたらす大いなる福徳を思えば、私達は、心に仏法僧の祝福を受けながら、どんなものでも、喜びをもって人々と分かち合う、大きな心を持つことができるでしょう。

物惜しみというのは、汚物のようなものです。

あらゆる煩悩の中で、最も醜いものです。

たとえ周りにいる人々が、物惜しみという汚物にまみれていたとしても、私達は、その汚れ(けがれ)に巻き込まれることなく、慈愛と無貧に満ちた、清らかな心の境地に住していたいものです。

お釈迦様が見ておられる、お釈迦様のダンマに守られている、お釈迦様のサンガの祝福を受けている、という思いをいつも心に持っていれば、もう何も怖くはありません。

たとえ最後のおにぎりを、苦しんでいるおばあさんに布施してしまっても、自分がそれによって飢え死にをする、損をする、苦しむ、などということなど絶対に無いと、はっきり知っているからです。

仏法僧の三宝の祝福を心に感じていれば、私達の心は、一切の生きとし生ける命に対する慈愛に満ち、私達の両腕は大きく広がり、私達の手は大きく開いていくでしょう。

私達は、人々と分かち合うことに、心の底から湧き上がる、深い喜びを感じることができるでしょう。

私達が、たまたま今持ち合わせているもの、それは、私達のものではありません。

たまたま今、私達の目の前にあるだけであり、私達の手の中にあるだけのものです。

皆、過ぎ去っていくもの、壊れて崩れ去っていくものに過ぎません。

もし、それを必要とする人達がいるなら、躊躇することなく、分かち合おうじゃありませんか。

どんなものであれ、それを必要としている人々と分かち合えるなら、どれほどの喜びと幸せを、感じることができるでしょうか。

私達の心に、本当の信や慈愛や菩提心が燃え上がっていれば、たとえどんなものであれ、たとえどんなときであれ、人々が必要としているものを分かち合いたい、と思うことができるでしょう。

私達がたまたま所有しているものなど、取るに足らないものです。

布施の心は、もっとずっと深く、メッターの心は、宇宙の果てまで広がっていくほど広大なものです。

そして、崇高な善行によって私達が得るであろう波羅蜜や福徳も、どんなものとも比較することができないほど、大きな大きなものです。

お釈迦様の祝福の光の中で、ブッダダンマの智慧の光の中で、ブッダサンガのご加護の光の中で、分かち合う喜びに随喜しましょう。

私達の目の前にあって、私達が自由にすることができるのは、ほんのわずかな品物かもしれません。

ほんのわずかな財かもしれません。

しかし、最大の喜びと最大の謙虚さをもって、それらを、必要としている人々と分かち合いたい、真心からそう願う、それが布施の心です。

物やお金だけではありません。

私達の持っているささやかな力、私達が蓄積してきたほんのわずかな知識、私達が行使できるほんの少しの特権など、私達が持っているものは何でも、私達ができることは何でも、最大の喜びと最大の謙虚さをもって、ブッダとダンマとサンガの祝福の光の中で、人々と分かち合いたい、真心からそう願う、それが布施の心です。

以上
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