2015年12月29日火曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.019-善業が作られる瞬間-福業事Ⅱ~戒によってつくられる善業(podcastの音声から文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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前回は、十種の福業事(ふくごうじ)、プンニャキリヤワトゥ、の中から、布施をベースになされる善行三種類についてお話致しました。

今回は、戒をベースになされる三種類の善行についてお話し致しましょう。

戒をベースになされる三種類の善行、とは何でしょうか?
一、戒律を正しく守ること。
これは、当然のことですね。

それに加えて、
二、敬意を払うべき方々に、心からの尊敬と敬意を払うこと。
そして、
三、その方々のために、善なるご奉仕をさせて頂くこと。
という三つです。

戒律を正しく守ること。

これは、五戒を守り、五戒に沿って行動することです。

そうすれば、それがそのまま、八正道の、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、の実践となるわけです。

五戒の内容については、原始仏教トークの第十七回で既にお話致しましたので、そちらを参考にして頂きたいと思います。

ところで、戒律を守るとき、私達が常に注意するべき、とても大切なことがあります。

それは、心の使い方です。

戒律とは、ご承知の通り、身体的行為と言葉についてのルールです。

こういう行動はしてはいけない、こういう言葉を口にしてはいけない、ということですね。

それでは、そうやって戒律を守るとき、私達は、どういう心を持つべきなのでしょうか?

仏教では、
謙虚で誠実な心を持って戒律を守りなさい。
と教えています。

しかし、謙虚で誠実な心を持って戒律を守ることは、なかなか難しいことです。

ただ五戒を守っているだけで、謙虚な心、誠実で私欲のない心、を育てるというのは、なかなかできることではありません。

どうしても時折、慢心や、欲、物惜しみ、怒りや不安、あるいは自分勝手な不善な考えが、頭をもたげてしまいます。

そこでお釈迦様は、十種の福業事という大切な教えを説かれたとき、戒をベースにした修行の中に、さらに二つの項目を付け加えられたのでしょう。
敬意を払うべき方々に、心からの尊敬と敬意を払うこと。
そして、
その方々のために、善なるご奉仕をさせて頂くこと。
この二つですね。

どちらも、慢心や、私欲や、物惜しみや、怒りや、不安や、自分勝手な不善な考えを、私達の心から、きれいに取り払ってしまうための修行です。

この二つを徹底的にやることによって、心はどんどん軽く、楽しく、幸せに、すなわち、善を楽しむ心になっていくのですね。

敬意を払うべき方々に、心からの尊敬と敬意を払うこと、これはパーリ語では、アパチャーヤナ、と言います。

敬意を払うべき方々とは誰でしょうか?

仏教の修行をしている人にとっては、まず最初に、ブッダと、ブッダの教えと、比丘サンガ、すなわち、仏法僧の三宝ですね。

三宝に対して、最大限の真心からの、尊敬と敬意を払います。

そして次に、両親、さらに祖父、祖母、兄、姉、その他、年長の家族、親戚の方々が続きます。
自分の家族や親戚でなくても、一般に、年長の方々に対しては、心からの尊敬と敬意を払うように。
と、お釈迦様は教えておられます。

次に、自分の師、先生です。

今までに、自分に知識や技術を教えてくれた先生、師匠、上司、先輩、それらの方々に対して私達は、心からの尊敬と敬意を払わなければなりません。

幼稚園や小学校のときの先生も、みんなここに入ります。

学校の先生でなくても、自分に何かを教えてくれた方々であるならば、ピアノの先生であれ、そろばん塾の先生であれ、皆、私達の尊敬と敬意の対象です。

たとえ年齢が近くても、同い年であっても、あるいは年下であっても、必ず敬語を使い、尊敬と敬意をもって接しなければなりません。

そうやって私達は、自分の心の中に巣くう慢心を、取り除いていけるのです。

さて先生について、私達全員が知っておくべき、とても大切なことがあります。

たとえ、どんなに昔のことであろうと、たとえ、教えてもらった知識や技能がささいなものであろうと、その方が、一度でもあなたに何かを教えてくださったのなら、あなたはその方に対して、生涯変わらぬ尊敬と敬意をもって接しなさい。

ということです。

今では、あなたのほうが多くの知識や技術を持っているかもしれません。

あるいは後になって、その方があなたに教えてくださったことが、不完全であったり、誤りだった、と気がつくことがあるかもしれません。

しかし、それでもあなたは、生涯を通じて、その方を決して批判するべきではありません。

悪口をいったり、軽視したり、下に見たり、軽くあしらったりしてはいけません。

友達のような、気安い態度を取るべきではありません。

なぜでしょうか?

かって、あなたに知識を与えてくれた方々を軽んじることによって、あなたは、自分が今まで学んできた大切な知識を、自ら侮り、軽んじることになるからです。

あなたがせっかく学んできた、知識や技術の恩恵を、十分に享受することができなくなってしまうからです。

一度でも、あなたに何かを教えてくださった方であれば、どうかいつまでも、その方に対して、謙虚さを忘れないでください。

そして、いつもその方に対して、真心からの感謝を捧げてください。

そうすることによって私達は、今まで自分が学んできた知識や技術や経験を、本当に生かすことができるようになるのです。

それでは次に、尊敬と敬意に値する方々のために善なるご奉仕をさせて頂く、とはどういうことでしょうか?

パーリ語では、ウェヤーワッチャ、と言いますね。

これもまた、私達の心から、慢心や私欲や物惜しみや不善な考えを、きれいに取り払うための修行です。

あなたが心からの尊敬と敬意を払うべき方々に対して、謙虚な心で、私の無い心で、誠実にご奉仕をするということです。

何も大したことをする必要はありません。

ほんのわずかなこと、些細なことでもかまいません。

現代では、他人に対して本当に謙虚になれる機会が、どんどん失われています。

謙虚になりたい、謙虚さをお伝えしたい、という心があっても、社会の習慣や友人や同僚や家族や知り合いの目を気にして、なかなか謙虚さを前面に打ち出すことができません。
比丘や先生や両親や年長の家族や上司や先輩の方々に対して、私欲の無い心で、謙虚な心で、誠実な心で、真心から奉仕をさせて頂きなさい。
と、お釈迦様は教えてくださっています。

ここにおいて、注意するべきことがあります。

それは、奉仕の内容そのものが大切なのではなく、ご奉仕を通して、謙虚な心、慢心の無い心、私欲の無い、誠実な心を育てることこそが、一番大切なのだということです。

あなたが希望する、良かれと思う方法でご奉仕をすることは、一見、とても良いことのように思えます。

しかし時として、我(が)の修行、に陥る危険性があります。

大切なのは、ご奉仕をする上で、あなたが何を望むか、何が一番良いと思うか、ではありません。

その方が何を望んでいるか、どうすればその方に一番喜んで頂けるのか、その一点だけを考えてご奉仕をさせて頂く、それが一番重要なことなのです。

そのようにして初めて、我の無い、慢心の無い、謙虚な、誠実なご奉仕をさせて頂くことができるのです。

それが、お釈迦様の説かれる、ウェヤーワッチャという修行のコツなのです。

ご奉仕の内容ではなく、私達の謙虚で誠実な心こそが、最も大切なものです。

たとえば、社会的に立派な活動、慈善活動や福祉活動を行うことは、とてもすばらしいことです。

しかし、もしそれらの善行をなす時、それをなす人の心に、慢心やひそかな私欲や、ねじ曲げられた怒りや、不善な考えがあったとしたら、どうでしょうか?

そのすばらしい行為によって得られる果報は、ほんのわずかなものになってしまうでしょう。

社会的に立派に見えるご奉仕、他の人が賞賛するようなご奉仕が、すばらしいご奉仕なのではありません。

ご奉仕の規模や内容が問題なのではありません。

私達が、謙虚な心で、慢心の無い心で、私欲の無い誠実な心で、真心をこめて、ご奉仕をさせて頂くこと、それこそが一番大切なことなのです。

そうやって私達は、慢心を取り去っていくことができるのです。

まさにそれが、お釈迦様の説かれた、ウェヤーワッチャ、尊敬と敬意に値する方々のために善なるご奉仕をさせて頂く、ということの本当の意味なのです。

以上

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