2016年1月27日水曜日

古徳を偲ぶ-奥州仙台の曹洞宗三陽山泰心院八世損翁宗益禅師

約四百年前、地元に損翁宗益(そんのうそうえき)という高徳の禅僧がおられたこと、その寺では雲水達の熱心に修行する風景があったことを知りました。損翁禅師が住持を務められた泰心院(たいしんいん)は、現在も仙台市若林区南鍛冶町にあります。

       (参考: 曹洞宗瑞雲寺、黄檗宗大年寺)

昭和17年9月30日初版発行
昭和57年11月25日改訂新版発行
同朋舎 中野東英著 中野俊定改訂
『損翁禅話 面山著「損翁老人見聞宝永記」讃』
以下、左写真の「損翁禅話」の「序」から抜粋します。

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一、この原著は、損翁老人見聞宝永記というものである。損翁老人は名を宗益(そうえき)といい、損翁は号である。弟子の面山瑞方(めんざんずいほう)長老が、師匠の禅話を百八題集めたのがこの書物である。どの話もみな実話ばかりであって、その内容は、全く道元禅師の正法眼蔵を、日常の上に活かして注釈したものといってもさしつかえないと信じている。
......中略.....
一、文中で損翁老人、又は損翁禅師というべきところは略して「師」と書いておいた。面山は後に禅師と敬称すべき人となったが、これを書いたのは三十三、四歳ころの雲水時代だから、ここでは長老としておいた。承知して読んでいただきたい。
一、原著には、各章の番号や表題はないが、見出しの便にと思ってつけ加えた。
昭和十七年五月吉祥日   桃源窟にて 中野東英 識

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以下、「損翁老人と面山和尚 -- 解説」(P242~244)から抜粋。

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 損翁宗益(そんのうそうえき)禅師(1649~1705)は慶安二(1649)年十二月二十七日に、出羽(山形県)米沢に生まれた。俗称は青木氏。

    ..........卍山(まんざん)禅師の「損中益あり、益中の損。損益兼修して道学全し。ために示す正徧回互の要。三畳五変ともに幽玄」の語に会って要旨を識得する。

 のち仙台泰心院の可山和尚について衣鉢を得る。そののち芋沢の庵室に山居して、長養するも元禄四年(1691)陸前(宮城県から岩手県)横川の祥雲寺に住し、元禄十年(1697)可山和尚の退隠により泰心院に普住した(泰心院八世)。

 師は母によくつかえ、遠方にあっても、春秋二回は帰省したという。住院してからは小堂を設けて、母と姉の二尼を養い、寺務の間に自ら仕えた。元禄十四年に母親は九十一歳で逝去し、師は姉尼と共に棺をかついだという。

 泰心院の規矩をととのえ、規式は厳粛をきわめたという。宝永二年(1705)春より病み、五月二十四日に遷化した。世寿五十七歳。法臘三十五歳。芋沢普門庵に埋骨した。

 弟子は面山和尚をはじめ八人あった。
    .............

 泰心院は、明治になってから寺域を曹洞宗中学林に提供し、これが発展して、現在の東北福祉大学となった。
    ...............

 本書の著者である面山瑞方和尚(1683~1769)は肥後(熊本県)三島に生まれ、.................
宝永二年損翁禅師の法を嗣ぐ。同三年損翁禅師の遷化にあい、相模(神奈川県)の老梅庵に閑関打坐すること一千日に及んだ。................明和六年(1769)九月十六日に建仁寺西来庵に示寂。世寿八十七歳。法嗣は二十七人。

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仙台市指定文化財の山門
泰心院は、今も仙台市若林区南鍛冶町にあります。

仙台市のサイト「寺めぐり「荒町・河原町あたり」

には、1567年米沢で開山後、岩出山を経て現在の場所に移ったとあります。

山門の額

山門向かって右にある仙台市による掲示板

本堂正面











市の文化財を解説する掲示板があるのは良いことですが、これだけの歴史があり、何よりも、損翁禅師という卓越した禅僧が住職をなさっていたという史実があるのですから、なんらかの形でそれを掲示できたら良いなあと思いました。
泰心院北側の墓地にある泰心院歴代和尚の墓

左の写真は、比較的最近作られたとおぼしき、歴代住職の碑がある場所です。

同拡大写真
七世中興 可山洞悦大和尚
八世再中興 損翁宗益大和尚
とあります

参考になるかは?ですが、大正十五年発行の仙台市全図復刻版から、泰心院のあるあたりを示します。






「損翁老人見聞宝永記」の原文は、近代デジタルライブラリにあります。 漢文です。上の書「損翁禅話」には書き下し文があり、その後ろに現代文で解説がなされています。わたしにとっては理解が難しい内容が少なくありませんが、全体として一般人向けの解説となっています。

損翁禅話をすぐ読みたいが手に入らない(古書ネットに見つかります)、という方は、「つらつら日暮らし」というブログをご覧ください。こちらのブログは損翁禅話という書籍の紹介ではなく、損翁老人見聞宝永記の原文を自ら翻訳して詳細に解説したものです。何しろ本職の曹洞宗僧侶がお書きになっているらしく、その内容は私のブログとは比較にならない本格的なものです。そちらをご覧頂ければ、私のブログは見る必要が無いと言ってしまうしかありません...。

ただ、そちらのブログには仏教や禅宗関係の内容だけを挙げても膨大な量が蓄積されているため、損翁老人見聞宝永記だけをもれなく探し出すにはコツが要るという印象があります。

昭和五十八年に書かれた、鈴木格禅という方の「損翁宗益」考がこちらにあります。この中で「東奥の辺境」と呼ばれているように、ここ仙台は当時の江戸、さらには面山老師の出身地である熊本から見たときに、どれだけ遠く寂しい酷寒の地であると思われていたことでしょう。それでも、来てくれました。以前紹介した黄檗宗の月海元昭(高遊外売茶翁)も九州佐賀から来てくれたのです。禅僧を大切にした伊達家代々のおかげでもありましょうか。

以下に数話転載します。

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一 初対面の親しさ

 元禄癸未(みづのとひつじ)の夏、余、年二十一、始めて武都(江戸)の万年青松寺に掛搭(かた)す、この隣寮に奥州仙台の僧益山なる者あり。これすなわち損翁先師の手度(弟子)なり。互に法盟を睦(むつまじ)うす。時に卍山、梅峰の二尊宿、師資面授一師印証の官訴を以てともに武都に寓す。先師(損翁)もまた面授に左袒して土器街(かわらけまち)の邸舎に寓在す。すなわち五月五日なり。時に師、膊(ひざ)に隰瘡(しっそう)を患いて、これを窓前に晒して以て痒(かゆがり)を抓(かけ)り。余威儀を具して拝す。師はただ守持衣(略服)を着るのみ。時に話し終りて、師おもむろに余に向うて曰く、子今(なんじ)青松寺に在らばすなわち毎夜当(ま)さに古則を商量(研究)すべし。頃者(このごろ)は什麽(なん)の本則ぞ。余伝く、玄沙遍参の話と。師曰く達磨東土に来らず、二祖西天に往かずと子今(なんじ)如何が会(え)す。余曰く、不増不滅と。師笑て曰く、天地懸隔。余曰く伏して開示を乞う。師曰く、涅槃妙心(佛法の真髄)を証得して始めて語話の分あらん、子(なんじ)の答話は一向に聡明の学語のみ。乞う轍を易(か)えて参禅せよ山僧寓在の間、時より来て閑を話せよと。慈愛肝に徹す。すなわち拝して退き自ら非を知り直ちに前轍を改む。

面山は後に損翁老人の弟子になった人だ。この一章は初めてお目にかかった時の話である。
 二十一歳で芝の青松寺に修行していた。ちょうどそのころ、宗門伝統の正規が乱れたのを嘆いて、それを復旧したい希望で、卍山、梅峰の二人が江戸に上って訴えを起こしている時で、師もこの趣旨に加担して江戸に上り、浅草の土器街(かわらけまち)にいて応援せられたのである。
 そこへ初めて、お目にかかりに行ったのだが、師はその時膊(ひざ)に皮膚病を患っていられたので、ひなたで抓(か)いていられた。勿論略服のままであった。丁寧に初対面の挨拶を済ませると、鋭い質問の刃が向けられた。
 毎夜、古則公案について研究があるはずだが今は何の公案をやっているかと。そこで近頃は玄沙遍参の話でありますと、答えた。
 玄沙遍参の話というのは、雪峰禅師が弟子の玄沙師備和尚に向って、
 「師備よ、汝ははぜ諸国修行に回ることをこころざさんのか、即ちなぜ遍参せぬのか」と問うた。
 「師よ、達磨は支那に来ない、又二祖の慧可は印度に往かん」と答えた。師僧の雪峰がこの答に満足した、という公案である。
 そこで質問は一層急になって来た。
 達磨東土(支那)に来らず、二祖の慧可は西天(印度)に往かず、という意味を、どう見ているか、という。
 不増不滅、同じ佛世界の中だから来るも往くもない、という意味で答えた。
 すると師は、それは頭で捏ね上げた理屈の解釈だ。なっておらん。もっと勉強して、涅槃妙心、すなわち佛教の真髄に触れてからでなくては話せん。理屈ばかりたどる研究方法はやめて、もっと真剣になって修行せよと、誠に懇切に誨(さと)された。
 茶話の間に、修行者の力量を見抜いて適当に進路を指し示しているのは指導者として当を得たものだ。相手が理論解釈の病に在ると見たから、説明で教えないで、ただ真剣に修行しろ、とだけいって、あとは相手の腹で、立ち直るように仕向けている。面山長老もまた、自分の聡明をなげうって、教えに順って前轍を改めたという。
 この初対面の様子にすでに師弟の縁が結ばれる親しさが溢れて見える。

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大昔の中国の禅話を読んでいるかのような気持ちになります。曹洞宗でも昔は公案を使った修行をしていたように読めます。臨済宗の参禅で老師と問答をするという修行は未体験ですが、いかにも禅僧の修行、といった感じですね。

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七○ 蜜の如き師弟

師最も剃髪受戒の因縁を貴ぶ。以て無上菩提の真路と為す。常に酔婆羅門出家の始終を挙して勧誘す。この故に晩年を度すること多し。本立なる者あり、常に菜園を主(つかさど)る。義貞なる者あり、常に街坊(おつかいあるき)を勤む。良全なる者あり、常に監糧を役す。常胤なる者あり、常に塩醤を宰る。慧運なる者あり、常に浄財を出納す。智雲なる者あり、常に翰墨を事とす。永全なる者あり、常に煎茶を務む。其の余、覚淳なる者、常に寺の掃除を管す。寂雲なる者あり、羽州の山形に庵居して時より来て謁見す。この僧、気宇俊邁豪爽、等輩の及ぶ所に非ず。法理を論ずるに到っては則ち座下の龍象と雖もあえて屈服せず。実に宿殖善根のしからしむるか。これらの徒弟共に師の勧誘に感発して剃髪する所、常に侍して他に去らず。涅槃の光明に浴するのみ。師病める時、余(面山)夜半潜かに佛殿に到って礼す、佛殿灯(ひ)無くして黒(くら)し、傍らに礼拝して低声に願の旨趣を白(もう)す者を聞くに、曰くただ願くば三宝龍天の威神力、謀甲寿命三年を減じて代って堂頭和尚の寿命一年を増し給え、唯願くば大慈大悲と言ひ訖(きっ)て一拝す、かくの如く拝数幾多なるを知らず。漸く五更に至る。後これを見れば林藝なり、余を見て恥づるが如し。余彼に云て伝く、汝の丹悃(まごころ)、三宝龍天豈に感応せざるべけんや。彼黙して低頭するのみ。かくの如きの事皆師の慈愍に感じて致す所なり。

 酔婆羅門のことは前に触れた通りである。縁ある者は誰彼なく弟子にされたから、年を取ってから出家した所謂(いわゆる)晩年僧が多かったらしい。菜園の係り、街坊の役(おつかいあるき)、監糧(くらばん)、塩醤、浄財(きんせん)、翰墨(しょさい)、煎茶((おちゃばん)、掃除、等皆役目をふり当てられていたのだ。中には気宇豪爽で勢の良い者もいた。
 座下の龍象というのは、弟子達の錚々たる連中を指して龍象といったのである。
 これ等の弟子が皆師のそばを離れずに付いていたというから、師の徳望がいか程高いものであったかが知れる。悉く師の寂(しづ)かな慈愛たる涅槃の光明に抱かれていたのだ。
 師が病気をされた時のこと、夜おそく佛殿に、お詣りに行った。灯が無いから真暗であったが、誰か細い声で何か言っている。耳を澄まして聞いてみると、「どうか、私の命を三年減らして、お師匠様の寿命を一年延ばして頂きたい」と繰り返して願っている者がある。それは弟子の林藝であった。
 夜中ひそかに、病める師匠の寿命を気遣って、自分の命を縮めても師匠の寿命を延ばしたいと祈願を籠めるとは、何と真情の溢れたものではあるまいか。筆者今聊(いささ)か自分の親、師匠を思うの情を顧みる時、慚愧面を被うのみ。この章末段は何となく胸の逼(せま)る感じがしてならない。
 
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「縁ある者は誰彼なく~晩年僧が多かったらしい。」など読むと、親しみを感じます。彼らと禅師の出会いは、どのようなものだったろうかと想像します。

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八十三 ハンセン氏病患者を救う

(※ ハンセン氏病で苦しんでいる方の中に、この文を読んで不快の念を抱かれる方がいらっしゃらないか心配しましたが、四百年前(解説文は昭和十七年)の話であり、内容そのものもご理解を頂ける範囲内ではないかと考えて掲載しました。

 林藝ある時余に話て伝く。師参内の帰路、江府を出でて行くこと一日程、一弱輩の、年十六七ばかりなる者を見る、途を同じうすること三四里。茶店に休す。弱輩もまた憩う。師熟々(つくづく)これを視れば即ち癩風(らいふう)(ハンセン死病)面に現れ眉毛無きが如し。師弱輩に問う何れの処より来り何れの処に行かんと欲するや。答えて伝く、某甲の家は江戸に在り、病を患うを以て下野那須の温泉に赴かんと欲す。師曰く、同伴有ること莫(な)しや。答えて伝く、某甲母を喪うて以来七年なり、継母子あるを以て常に某甲を憎嫉す、況やまたこの病を患うをや。終に父に告げて家を逐出す。豈に同伴有らんや。父はまた太だ憎まずと雖も継母の指揮に随わざること能わざるは畢竟某甲過去世の業のみ。この故に父や潜かに某甲を召して金百両を与えて生涯の離別を為せり。某金半分は且(しばら)く措いて江戸麹町の叔父に託す、五十両は今懐中に在り。然れどもこの病癒(いゆる)の期有るべからざれば則ち此金もまた什麽(なん)の用か有らんやと落涙して声を呑む。師悲感に堪えず大慈悲心を生じてこれに伝て曰く、我はこれ奥州仙台の僧なり。このたび洛陽に往き江府を経て奥州に還る。汝もし我と来らんや否や、もし来らば即ち誠を竭(つく)して憐みを垂れんのみ。弱輩歓喜して伝く、今和尚を頼んで以て亡母の蘇生とせん。今日はこれ母の忌日なり、実に亡母の冥感たちと云い了て直ちに懐金を出して師に度与す。師曰く、汝半分を懐にせよ、我半分を懐にせん。即ち長途哀憐して横川の祥雲寺に帰る。直ちに官医に就いて療治を乞う。医師伝く、此人、年二十を超えば則ち必定瘥ゆ(癒)べからず。未だ二十に足らず則ち十の七八は本復すべきのみ。即ち灸治煎薬を用う。師もまた教えて日日神咒を持せしむ。三年未だ満たざるに眉毛も漸く生じて面容もまた革(あらた)まる。師五十金の利息を以て薬を買いあるいは医師を謝す。四季の衣服足らざるもの無し。四年の春に至て病忘れたるが如し。師に侍すること六年、年二十二に至て常人よりもまた健(すこやか)なり、一点の病疾有ること無し。師、事有り江戸に赴く、これに命じて僕と為す。既に至てこれに云て伝く、汝先ず叔父を訪うて父母の安否を問え、速かに還て我れに告げよ。すなわち諾して往く。日斜にして還り師に白して伝く、叔父某甲を見るや始めは則ち未だ識らず。名を称するに及んで驚き喜躍すること涯(かぎり)無し。かつ話(かたっ)て伝く。父は尚健なり、弟は病に因て死す。継母は子を愁いて久しく病めり。卒(つい)に本復せずして客春を以て逝きぬ。ただ父や不幸一ならざるを以て自後妻を納れず。日々ただ汝の蹤跡如何を語り出して泣涙するのみ。速かに父を省て喜ばしめよ。我れ先ず往て告げんと。起て即ち往く。某甲暇を告げて還ると云う。師曰く、待て我れ汝の父を召して曲折を告げんと。即ち使を遣て召す。父叔父と伴い来る。師の六年以来慈憐を垂れて病本復を得るの曲折逐一を説くを聞いて感激涙を落して言陳する所なし。礼謝して退く。終に師に白して納れて嫡子と為す。以て家財を譲り、叔父の女(むすめ)を迎えてこれを嫁す。叔父向(さ)きの五十金を出して利息を加えて還えす。師もまた五十金を出してこれを還す。辞譲すれどもきかず。後に至て某家増々富み、元禄の末、師江府に寓すること一年余、同宿の僧の三四輩、日用の斉料万種んぽ雑事皆彼の家より尽く供給す。これ又師んぽ慈悲心中より湧出するの余裕なり。余聞いて忘れず。今茲に記す。

 進んでハンセン死病患者を引き連れて寺に帰るということは、到底普通の人のなし得ないところである。真に菩薩の心に至った人はこういうことまでできるものかと感歎せざるを得ない。光明皇后が一千人に施浴の願を立てられた話は有名である。その中に、やはりハンセン死病患者に仁慈の御心を垂れさせ給うた物語がある。これは皇后の御仁慈の御心が非常に固かったことを讃歎したものであると拝察する。
  師が道中で、見ず知らずの若者を、いたわる心には、相手を見てない。ハンセン死病患者であろうと肺病であろうと、そんなことを考えていられない。ただ師自身の溢る佛心が、一途にそうせざるを得ないで決行された菩薩行である。
  五十両を師に預けると言い出した時、断りもせず、又全部も預からず、半分ずつ分けて懐中せしめている。ここに何ともいえない深い思い遣(や)りの現われが見えるではないか。この片寄らない処置は相手に安心と親しみとを充分に与えている。師がこれを意識して、考えた上でやったことではない。突差(とっさ)の処置に、不即不離の妙用が現われて来るところは、さすが禅者の活手段である。信頼できる医者の治療を受けさせながら、一方には神咒を読ませて本復を祈禱させる。身心一如に療養せしむる所にも有難い心づかいが現れる。

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損翁禅師の慈悲をしみじみと感じます。

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九三 雨乞い七日

甲申の夏、仙台大(おおい)に旱(ひでり)す。官、国中の民家に号令して雩(あまごい)す。諸紙祠、諸寺院、共に官命を承て法式に依て祈雨す。然れども六旬余雨ふらず。地面熬(い)るが如し。草木半ば焦(か)る。師これを聞いて潜かに香華を龍天の壇前に厳備してすなわち七日を期して闔山(かっさん)の大衆をして昼夜互に代て、大雲輪請雨経(しょううきょう)を朗読せしむ。いわゆる不断輪の法なり。五日の夜半に至て驟雨忽ち至る。翌日暫く晴る。尋でまた大に雨ふること両日、国中蘇るが如し。官これを聞いて米二十石を賜う、師終に受けず。潜かに伝く。ただ三宝龍天の力に頼んで炎旱の民苦を救うのみ、財施を招く幸いのために非ずと。

 雨乞の事は、和歌、俳句、詩等に多く遺っている。これは人間至情から出る祈りの言葉だ。もし雨乞など非科学的なことだ、気象自然の然らしむるところ、人為の如何ともすることを得ぬことを祈願するのは迷信だといってしまうなら、それは科学を知って人間を知らぬ者である。
 
 半歳がかりで耕作した田畑が枯れ尽くそうとしている。気象の必然、大自然の威力なればこそ、祈らずにはいられないのが人間だ。師が一週間昼夜兼行で請雨経を読んで雨乞の法を修したところに、人間味ゆたかな禅者であることが嬉しい。大悟徹底をきめ込んで、それがどうなるもんか、というような顔つきをしている者なら禅僧ではない。農民の旱苦を見ているに忍びないので、夢中になって請雨経を読む。大衆の悲しみに向かって泣き、大衆の喜びに対して笑う。大衆のために我を忘れて何でもしてやる人にして真の禅者ということができるものだ。師の慈愛の深くかつ大いなることを感激すると共に、自らを省るのよい機とする。

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以前紹介した性西法心と共通する、禅僧の慈悲が地域の人々の心を潤すという働きを感じます。

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九七 年貢米半減を全免に

泰心は斉料の米地、大檀那の寄附する所纔(わずか)に八十碩(石)、殿堂を修理する費用を除けば則ち僧数十箇を養うに足らず。然れども師、一住十五年、冬夏の結制衆、四十箇に下らず。春秋の間(あいだ)と雖(いえど)もまた三十箇ばかり。禅弛(ゆる)むことなし。あるいは飢荒米地の村長来て貢米(ねんぐまい)半分を減ぜんことを願う。典座師に白す、師曰く、何ぞ半分と云わん、都(すべ)て免ぜよ。典座伝く、来歳を奈何(いかん)せん。師曰く、宏智(わんし)和尚格言あり、伝く人々口ありと、我また跡を慕うのみ。典座命に随う。村長これを承て悦び望外に出ず。翌歳豊熟す。村長一時に両年の貢米を納(い)れて謝を致す。師尚半分を譲て受けず、遠近これを廉(いさぎよし)とす。

 師の泰心院は裕福の寺ではなかったらしい。だが師の徳を慕うて集まる雲水達は常に三十人ぐらいは居たというから、食料も随分きりつめてあったに違いない。
 寺は入るべき貢米(ねんぐ)を半分に負けてくれというのに対して、半分ではなく全部負けてやれと。そうしていうことが又ふるっている。人々互に喰う口を持っているのだから、食うには困るまいというのだ。米の有無や食料の豊倹を見ていない。口があるのだから食えるという宏智禅師の格言そのままを実行にうつしている所に如何にも超越した心境が滲み出ている。
 宝永年間における禅寺の経済状態と、昭和時代の寺院経済とは同日に論ずることはできないのは勿論だが、経済に充分意を用うる一面と又経済を飛び離れる一面とが自由に使われることは、処世上の重要な鍵であると思う。
 「世間衣糧の資具は生得の命分ありて、求めに依っても来らず、求めざれども来らざるにもあらず」(正法眼蔵随聞記)福分は持って生れた天分で定められてあるから、金銭にしても品物にしても、欲張ったからとて与えられもせず、反対に無欲で知らん顔をして居ても与えられるものは与えられるというのである。確かにそれに違いない。

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六二話「渋柿で飢えを凌ぐ」では、損翁禅師が壮年の折りに、埼玉の龍穏寺(りゅうおんんじ)に雲水していたとき、夜間こっそりと渋柿をもいで食べたこと、他の雲水達も食べたことが述べられています。
   ...........渋柿などがどうして食べられたものかと思う。口の中が引きつるようなあの渋味、それでも空腹で堪(たま)らないので、それを食べて腹の虫を押さえて眠りにつく。昔の修行者達の艱難辛苦の有様は到底我々の思いもよらぬものがある。.....

とあります。年貢米の免除の話も、どこまでも悲惨で苦しい、あの時代の農民の生活を、損翁禅師がよくご存じであったからのことでしょう。

=====(転載ここまで)======

損翁禅師のような方が昔この仙台におられたのだということを、もっと知ってもらいたいという気持ちになりました。地元には「みやぎの先人集」というものが県のウェブサイトに見つかりますが、改訂の機会があれば、損翁宗益禅師の掲載を検討してもらいたいものです。それとも、宮城県の仏教界が宗派横断的に協議なさって、故郷ゆかりの名僧伝といったものをお作りになっては如何でしょうか?

ところで損翁禅話には、幾つものお寺の名前が出てきます。その中から泰心院に比較的近いお寺を二つ。

① 曹洞宗金秀山瑞雲寺


八○ 「坐禅の心境」(P174~175)の始めに「師八塚瑞雲寺の報恩講に赴く...。」とあります。


瑞雲寺は、泰心院からだいたい北東の方向に直線距離で500mくらいの場所に現在もあります。八塚は仙台 新寺の曹洞宗洞林寺のブログの「洞林寺の創建と歴史について」によると現在の地名でいう新寺地区一帯を指していたらしいとあります。

仙台市のサイト「寺めぐり「連坊・木ノ下あたり」によれば、

「文安元年(1444)に米沢で瑞巌寺という名で開山、岩出山を経て現在地に移った。慶長11年(1606)政宗が松島の円福寺を瑞巌寺としたときに、瑞雲寺となった。」とあります。伊達政宗、泰心院、損翁禅師も瑞雲寺も、皆、米沢が故郷なのですね。


② 黄檗宗両足山大年禅寺


三三 「信心銘の極大と極小」(P70~73)には、「愚中初め仙台大年寺の鳳山に参じて註する所の信心銘を得て看る。鳳山曰く、......終に臘月に至り大年を出奔して泰心に来る。....」とあり、

五四 「一人も凡夫を見ず」(P115~117)には、「泰心の檀家、刀屋某なる者は仙台の巨富なり、曽て大年寺の鳳山に参じて授払の弟子(俗弟子)となる。没故の時、葬礼を泰心に行い師を請して~。」とあります。

広瀬川にかかる宮沢橋から臨む大年寺山
山上にあったかっての建物群は、今は無く、現在の両足山大年禅寺は大年寺山南斜面の裾に位置しています。詳しくは大年寺のウェブサイトをご覧ください。

大年寺がその上に建っていた、その名も大年寺山は、東京方面からの下り新幹線車中から左前方向によく見える、三つのテレビ塔が建っている山です。

左下写真の書「仙台と黄檗を繋ぐもの」によれば、当時の大年寺は敷地五万坪の広さがあり、鉄牛道機を開山とし、黄檗三叢林のひとつとして全国的に有名なお寺でした。この本には、かつての大年寺の歴史と地理を詳細に調査した結果が書かれています。
大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会 発行
尾暮まゆみ 著
仙台・江戸学叢書37 「仙台と黄檗を繋ぐもの 
-四代綱村以降の伊達家の菩提寺-」
山内には二十の塔頭(僧院)があり、二百名もの僧が修行していたと言います。

前に紹介した「売茶翁と仙台」で、月海元昭(高遊外売茶翁)が修行した万寿寺の住職であった月耕道稔は、その前、大年寺の二代目住持でした。損翁禅話にも名前が出てくる鳳山は四代目です。ちなみに仙台には少し前まで鳳山という名の酒造会社がありました。泰心院と大年寺山の中間ぐらいに位置する南染師町にありました。

大年寺山は自分の子供時代の遊び場でした。杉木立の中を縫う、細く急な山道を使って、山を登り降りしたものです。付近には昔、亜炭を採掘していたらしい廃坑が幾つかあり、懐中電灯を持って友人と探検した思い出があります。頭上を見るとカマドウマがいっぱいへばりついていてぞっとしたことがあります。

四百年前の昔、寺を囲んでいた森の中では、時に野外で坐禅する雲水僧の姿が見られたのではなかったでしょうか?二百人いたという雲水の中の一人が、過去世の自分だったりしたらなどと想像してしまうことがあります。

以上
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