2016年1月2日土曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.021-ダンマを語る~お釈迦様のダンマを人にお伝えする時の心構え(podcastの音声から文字起こししたもの)

※ 原始仏教トーク-No.020-ダンマを聞く~お釈迦様の教えを学ぶときの心構え~は、過去に掲載済みですので、ここをクリックしてください。

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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今回は、お釈迦様のダンマを人にお伝えする時、どうやって、また、どういう心構えでお伝えすればよいかについてお話ししましょう。

お釈迦差の教えを人にお伝えすること、これをパーリ語で、ダンマデサナー、と言います。

日本語では、説法(せっぽう)、あるいは、法の説示(似)(せつじ)と翻訳されています。

ダンマデサナー、お釈迦様の教えを人にお伝えすること、は仏教徒にとって、とても大切な修行であり、すばらしい善行です。

しかしまた同時に、よほど注意深く行わないと、善いことをしているつもりが、実は悪いカンマを形成してしまっている、という事態に陥る危険もあります。

パーリ三蔵の中のアビダンマの第一の書、法集論(ほうしゅうろん)の解説書として有名な、勝義(?)論(しょうぎろん)、アッタサリーニ、という本があります。

そこでは、法を説くことについて、次のように説明されています。
もしある人が、
「きっと皆、私のことを法を説く指導者、説法者と思ってくれるだろう。」
と、ひそかに考え、人々の尊敬と賞賛を得る目的で、法の説示を行った場合、残念ながら彼は、善き功徳をほとんど得ることはできないだろう。
逆にある人が、人々からの尊敬や賞賛などはまったく眼中に無く、
「ただ解脱に至りたい。そのために多くの波羅蜜を積みたい。」
という一心で法を説いた場合、しかも、自分が修行し、実証し、精通したダンマだけを人に説いた場合、彼は、溢れんばかりの功徳を得ることができるだろう。
およそ、ダンマデサナー、法の説示、という善行は、かくのごとく行われなければならない。
サンユッタニカーヤの巻の二の百九十九において、お釈迦様は、ダンマを説く指導者を、二つのタイプに分類されています。

第一のタイプは、
人々は、私の説法に満足し、私の言うことなら何でも聞くようになるだろう。私に沢山のお布施をもたらしてくれるだろう。
という不善で不純な下心を持って、人々に法を説く指導者です。

第二のタイプは、
私の説法を聞いて、お釈迦様のダンマを、どうか理解して欲しい。ダンマのすばらしさを、どうかわかって欲しい。そして、八正道に基づいた戒、定、慧の修行をやってみようという気持ちになって欲しい。そしていつの日か、苦しみからの解脱の境地に至って欲しい。
という、清らかで善なる心で、人々に法を説く指導者です。

彼は、人々に対する深い慈しみを持ち
どうしても人々に解脱に至って欲しい。
と強く願い、法を説くのです。

表面では宗教家を気取り、心の底では、社会的な評価、尊敬、賞賛が欲しくて、あるいは経済的な繁栄を求めて、法を説く指導者は、非常に悪いカンマを形成してしまう場合があります。

十分な注意が必要です。

遠い遠い昔、カッサバ仏(ぶつ)の教化期(きょうげき)の頃のお話です。

二人の兄弟がカッサバ仏の下で出家して、比丘となりました。

お兄さん比丘は、一生懸命瞑想修行に邁進し、ほどなく、アラハンという最高の悟りの境地を証悟することができました。

弟の方はどうだったでしょうか?

弟比丘の名前はカピラと言いました。

カピラは、お経や、戒律や、アビダンマの勉強を一生懸命やり、やがて学僧になりました。

カピラは、その知識によって有名になり、多くの弟子たちが、彼の下に集まりました。

また、大変な量のお布施を受けるようになりました。

最初のうちは、カピラは、仏法僧に対して、とても強い信を持つ、誠実な比丘でしたが、やがて、自分の知識について強い慢心を持つようになり、他人の言うことを何でも馬鹿にして批判するような、尊大な態度を取るようになっていったのです。

誰かが、「これは正しい。」と言えば、彼は難癖をつけて、「いや、それは、この点で間違っている。」と批判し、誰かが、「これは間違っている。」と言えば、彼は屁理屈を付けて、「いや、それには実は正しい部分もある。」などと反論したのです。

周りの比丘達は、彼にやんわりと注意を与えました。

しかし、彼は自分の知識を鼻にかけ、比丘達の忠告を素直に聞くことができませんでした。

彼らの貴重な意見を無視し、不遜な態度で応じ、「知識の無い愚か者達の意見だ。」と見下したのです。

アラハンを証悟した彼のお兄さん比丘も、なんとか彼の尊大な態度を変えようとしましたが、カピラは、まったく聞く耳を持ちませんでした。

このように、カピラの慢心は止まるところを知らず、そのうち、カッサバ仏の教えを、自分勝手に変えて、自分に都合の良い話を、ダンマとして、人々に説法するようになったのです。

もちろんこれは、決して行ってはいけない、大変な悪行(あくぎょう)です。

その悪業(あくごう)によって、カピラは死後、地獄界の中でも、最も恐ろしい、アヴィーチ地獄という境界に、生まれ変わりました。

そしてそこで、果てしない期間、とても言い表せないような、恐ろしい責め苦を受けたのです。

やがて、アヴィーチ地獄における、彼の寿命は尽きましたが、彼のなした悪業は、まだまだ消化しきれてはおらず、次に彼は、ピラッチャーナ、すなわち畜生界という境界に生まれ変わったのです。

私達のゴータマブッダが生きておられた頃、サーワティの祇園精舎の近くに、アチラヴァティという川がありました。

カピラは、その川に住む、黄金色の魚に転生することになったのです。

魚になったカピラは、ほどなく、漁師に釣り上げられてしまいました。

とてもめずらしい色の魚だということで、漁師はお釈迦様の前へ、お布施としてカピラを差し出したのです。

黄金色の魚となったカピラは、お釈迦様に何かを言いたかったのでしょうか、口をぱくぱくと動かしました。

すると、その口から突然、耐えられないような悪臭が漂い、部屋全体を覆い、その場にいた人々は、息を吸うことすらできなくなりました。

そこで、お釈迦様は、この魚の因縁話をお話しになられました。
この魚は、かって、カッサバ仏の下で出家した、カピラという比丘であったこと。
彼は、最初の頃は、カッサバ仏の教えを人々に正しく伝え、仏のダンマを賞賛するお経を、朝晩誦えるなど、とても誠実な比丘であったこと。
その功徳によって、魚である彼の身体は、今も黄金色に輝いていること。
しかし、やがて彼は高慢になり、尊大になり、周りの善意ある比丘達の悪口を言い、馬鹿にし、攻撃し、ついには、その悪しき慢心の故に、カッサバ仏の教えを勝手に曲げて、人々に、誤ったダンマを、正しいダンマとして説法するようになったこと。
その許し難い悪業によって、魚となった彼の口からは今も、耐えられない悪臭が漂ってくること。
この魚は、お釈迦様の前で、ほどなく死んで、なんと再び、アヴィーチ地獄に再生したと言われています。

地獄の責め苦を受けた後でも、カピラは、昔のままの不純で不善な心を捨て去ることができなかったのでしょう。

なんとも恐ろしい話です。

在家修行者の方々は通常、比丘やサヤレーほど、ダンマに精通している訳ではありませんが、お釈迦様の説明された方法に従えば、自らの法友である、在家修行者の仲間の方々と、ダンマを分かち合うことができます。

アングッタラニカーヤの巻の四の二百十九で、お釈迦様は、次のように説かれています。
一、あなたは、自分自身が実際に修行し、実証し、証悟したレベルまでのダンマに限って、他の在家の修行者の方々に、お話することができる。
二、もしあなたが、仏法僧に対する信を確立することができたならば、あなたは、仲間の在家修行者の心の中にも、そのような信が確立されるよう、ダンマを分かち合うことを試みることができる。
三、もしあなたが、五戒を護持することを、自らに確立することができたならば、あなたは、仲間の在家修行者の心の中にも、五戒の護持が確立されるよう、ダンマを分かち合うことを試みることができる。
四、もしあなたが、自ら解脱を証悟できたならば、あなたは、仲間の在家修行者達もまた、解脱を証悟できるよう、ダンマを分かち合うことを試みることができる。
総じて、もしあなたが、比丘に会いたいと心から願い、その比丘から正しいダンマを聞きたい、と心から願い、聞いたダンマを決して忘れないように、心に刻み、そのダンマの意味を何度も何度も推敲し、沈思黙考し、随念し、味わい、そのダンマを暗記し、そこに込められている深い真意を身をもって知り、そのダンマの教えを、自らの生活に矛盾無く生かし、一切の汚れなくそのダンマを護持し、そのダンマを生き、そして、まさにそのようにして、自ら身につけたそのダンマを、他の在家修行者達にも分け与えたいと思い、適切な相手と、適切な方法で、ダンマを分かち合うなら、あなたは自ら、大変大きな波羅蜜を積むことができると共に、ダンマを分かち合った仲間の在家修行者達にとっても、大変大きな祝福となるであろう。
人々への深い慈しみの思いの故に、清らかな善なる心で、
教えを求める人達とダンマを分かち合いたい。
そう思いませんか?

もしそうなら、あなたはまず最初に、そのダンマを完全に自分のものとしなければなりません。

一生懸命勉強し、修行して、そのダンマを、まず自分のものとすること、それができて初めて、あなたは、他の方々にも、そのダンマをお伝えすることができるのです。

それが、お釈迦様のお示しになったルールです。

ダンマを他の人々と分かち合うこと、それは、すべての布施の中でも、最高の布施行(ふせぎょう)と言われています。

法の施し、と書いて、法施(ほうせ)、とも言われています。
ダンマを人々と分かち合いたい、どうしても、人々に解脱に至って欲しい。
これは、大変高貴な志です。

この志からは、そのためにはまず、自ら一生懸命ダンマを学び、修行し、しっかり身につけていこう、という尊い熱意、菩提心(ぼだいしん)が生まれてきます。

さあ、私達もこれからは、自分のためだけではなく、他の人々のためにも、より一層の熱意を持って、ダンマを学び、ダンマを修行して、一刻も早く、自己完成することを目指して行こうではありませんか。

以上
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