2016年2月5日金曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.030-人が人であるために~恥じる心と畏れる心~(podcastの音声から文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

---------------

四悪趣に堕ちないために、より善い再生を得るために、人を傷つけたり欺いたりするような、悪い行為をなさず、善いことをなしなさい、それが仏教の根本である。

ということを今まで学んできました。

諸悪莫作、衆善奉行ですね。

いくらよく瞑想ができたとしても、いくらアビダンマを詳しく知っていたとしても、諸悪莫作衆善奉行の実践ができていなければ、なんにもなりません。

逆に、たとえ瞑想は少し苦手でも、たとえアビダンマがよく理解できなくても、五戒を正しく守り、人を傷つけたり欺いたりしない、と固く決心し、諸悪莫作衆善奉行の実践に日々精進しているなら、その人こそ、本当の仏教徒です。

お釈迦様が生きておられたら、大変お喜びになると思います。

さて今回は、恥じる心と畏れる心について、少しお話をしましょう。

恥じる心、もっと正確に言えば、不善な行為を行うことを恥じる心、をパーリ語では、ヒリと言います。

畏れる心、すなわち、不善な行為を行うことによって生ずる、悪いカンマの結果を畏れる心を、パーリ語では、オタッパと言います。

ヒリとオタッパという二つの心、これは、日本では伝統的に、慚愧(ざんき)と訳されていますね。

この二つの心は、いわば、私達が社会の中でより善く生きていこう、と決心することです。

いつも善意を持って生きていこう、と固く決心し、清く正しく生きていく情熱を持つということです。

このヒリとオタッパという二つの心は、私達の意識が善である時、必ず同時に生起しています。
このような、ヒリとオタッパ、すなわち、不善なる行為を恥じる心と、不善なる行為の結果を畏れる心は、世界の守護者である。
と、お釈迦様は教えてくださっています。

最近は、恥じる心や畏れる心を、忘れてしまっている人達が、多くなっているかもしれません。

学校でも社会でも、人間としての恥と畏れを、教えることが無くなってしまいました。

嘆かわしいことですね。

もし心にヒリとオタッパが生起していなければ、善き人間としての恥と畏れを持ち合わせていなければ、どうなるでしょうか?

その時私達には、二つの不善な心が生じます。

ひとつは不善を恥じない心、恥知らずな心です。

パーリ語では、アヒリカと言いますね。

日本語では無慚(むざん)と訳されています。

無残なというのは、現代では残酷なという意味で使われることが多いですが、もともとは、不善な行為を行うことを恥ずかしく思わない心、戒律やルールを犯すことを恥じない、恥知らずな心のことを言うわけです。

この心が生じる時は、必ず同時にもうひとつの心、不善な行為の結果を畏れない、不遜で傲慢な心が生じます。

パーリ語では、アノタッパと言います。

日本語では、無愧(むき)となります。

二つ合わせて、アヒリカアノタッパ、無慚無愧、と呼ばれています。

恥を知らず、畏れを知らない、不遜で傲慢な心です。

刺激対象に対して貪りが生じたり、怒りが生じたりする時、あるいはまた、人を傷つけたり、欺いたりするような行為を行う時には、私達の意識は、不善すなわち善ならざる状態になります。

そういうときには、必ずこの二つの不善な心、アヒリカとアノタッパ、恥知らずな心と畏れを知らぬ心が生起しているのです。

たとえば、あなたが家にいる時、オートロックの外にNHKの集金が来たとしましょう。

あなたにもし、善き社会人であろう、いつも善意を持って生きていこう、いつも良心や良識を持って、清く正しく生きていこうという決意と情熱があれば、あなたは自分の家に何台のテレビがあるかを告げ、正直に受信料を払うでしょう。

でも、もしその時あなたに、不善な行為を恥じず、また、その結果を畏れぬ、不遜で傲慢な心があれば、あなたは、「私はテレビを持っていません。」と嘘をつき、集金人を追い払うかもしれません。

税金の申告はどうですか?

正直に行っていますか?

あるいは、著作権があって、本来であれば有料の音楽や書籍やフィルムや動画を、違法にダウンロードしてしまうことはありませんか?

あるいは、それと知りつつ、そのような違法なデータを、友達にあげる、あるいは友達からもらう、ということはありませんか?

私達の社会では、こういったちょっとした違法な行為、またそれを可能にする不善な行為を恥じず、またその結果を畏れぬ、不遜で傲慢な心にあふれているように思います。

私達の社会は本来、お互い正直であること、お互い誠実であることを前提としています。

お互いに疑わない、相互に信頼し合う、という原則の上に成り立っています。

もし、商品を送り、請求書を出して、支払いが約束通りに行われなければ、もう、そのような形の取引は不可能になってしまいます。

欧米などでも、人が人を信用しない、まず疑ってかかるということが、社会の常識になりつつあり、会社間の取引ですら、ほとんど、クレジットカードや小切手による前払いか、弁護士などを介した、第三者寄託を通して行われる、という風に変わってきているようです。

これでは、健全な社会は成り立ちません。

自由平等であれ、民主主義であれ、自由経済であれ、ひとりひとりが、善意ある、良識ある、正直で誠実な人達であるという前提があって、初めて成り立つものです。

もし、ひとりひとりが恥も畏れも無く、バレないでズルができる時にはズルをする、隙さえあれば、不正に懐に入れる、というようになったら、自由で平等な社会は成り立ちません。

取り締まりや、検閲や、懲罰によって、ひとりひとりを厳しく管理しなくてはならなくなります。
ヒリ、オタッパ、不善なる行為を恥じる心、不善なる行為の結果を畏れる心こそが、世界の守護者である。
とおっしゃった、お釈迦様の教えの真意は、まさにここにあります。

ヒリとオタッパがあって初めて、恥を知る心と不善を畏れる心があって初めて、健全な人間関係や、健全な社会が成立するのです。

さあ私達も、お釈迦様の教えに従って、誰かが見ている見ていないに関わらず、バレるかバレないかに関わらず、社会の中でより善く生きていこう、いつも善意を持って生きていこうと、決心しようではありませんか?

常に良心や良識を忘れず、清く正しく生きていこう、と固く決意しようではありませんか?

恥を知り、畏れを知る情熱をもって、お釈迦様のおっしゃるとおり、ダンマに沿って生きていこうではありませんか?

以上
---------------