2016年2月8日月曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.031-Dukkha(1)三種の苦~肉体の苦、心の苦、輪廻の苦~(podcastの音声から文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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四門出遊(しもんしゅつゆう)という有名な話があります。

お釈迦様がまだ王子だった頃、悲惨な現実の世界を見ないように、父である浄飯王(じょうぼんおう)から、城郭の外へ出ることを禁止されていた、と言われています。

快楽にあふれた、快適な城郭の中だけで暮らしていたお釈迦様は、ある日、外の世界を見てみようと決心され、お供を連れて、城郭の東の門から外へ出てみました。

すると、よたよたと杖を突きながら歩く、惨めでよぼよぼの老人に出会い、大きなショックを受け、予定を変更してすぐにお城に引き返されたと言われています。

お釈迦様は城郭の中で、そんな惨めな老人を見たことがなかったのです。

別の日にお釈迦様は、城郭の西の門から外出をされました。

すると今度は、皮膚が変色し、ウジがわいている病人に出会い、再び大きなショックを受け、予定を変更して、すぐにお城に引き返されました。

お釈迦様は城郭の中で、そんな悲惨な病人を見たことがなかったのでした。

さらに別の日に、城郭の南の門から外出をされると、今度は、腐乱した死体に出くわしました。

お釈迦様は三度(さんたび)大きなショックを受け、予定を変更して、すぐにお城に引き返されたと言われています。

城郭の中では、死体はすぐに持ち去られ、お釈迦様の目に触れることはなかったのです。

最後に、城郭の北の門から外出された時、お釈迦様はひとりの修行者に出会いました。

ボロ切れを身にまとっただけの、とてもみすぼらしい修行者でしたが、その顔は光り輝き、平安にあふれており、お釈迦様は大いに感銘を受けたと伝えられています。

このように、ご自分の城郭の四つの門から外出し、人生の苦しみと、そこからの出離(しゅつり)を、目の当たりに見て、お釈迦様は出家を決意されたと伝承されています。

この話からわかるように、お釈迦様の仏教は、苦の認識から始まりました。

ですから私達はまず、お釈迦様が問題とされた苦を、正しく理解すること。

そしてさらに、その苦を、お釈迦様と同じように、身をもって感じ入ること。

それが、とても大切になるわけですね。

そこから、そしてそこからのみ、仏教の正しい理解と、正しい修行の道が始まります。

ということで、原始仏教トークでは、仏教で最も重要なテーマである「苦」について、少し時間をかけて、じっくりとお話していきたいと思っています。

苦はパーリ語では、ドゥッカと言いますね。

このドゥッカを深く理解するためには、三つの視点から見ていく必要があります。

最初は、ドゥッカを大きく三種類に分けて見ていきます。

次に、生老病死、四苦八苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)など、一般によく知られている苦の分類、いわゆる十三種の苦のひとつひとつについて、考察していきます。

そして最後に、より高度な苦の分類法である、七種の苦についても、しっかり勉強していきたいと思っています。

ドゥッカを、このように多角的にとらえていけば、仏教の大本である苦というものが、はっきりと、そして、より明確に理解できるようになると思います。

では今回はさっそく、三種の苦、についてお話し致しましょう。

苦、ドゥッカ、には大きく分けて三種類あります。

まず、一つめの苦は、身体(からだ)の痛みですね。

神経細胞は、私達の身体の表面ばかりではなく、内側にも張り巡らされています。

そしてそこで、神経が痛みを感受するわけです。

ある種の痛みは、痛みと言えないほどの、弱いものです。

また、耐えられないほどの強く激しい痛みも当然あるわけです。

この痛みは、身識(しんしき)、身体の意識ですね、パーリ語では、カーヤヴィニャーナと言いますが、その身識と共に生起する、受(じゅ)という心所(しんしょ)、ヴェダナーですね、このヴェダナーが感受している痛みです。

身体の苦は、パーリ語では、カーイカドゥッカと呼ばれています。

身体の痛み、これが一種類目の苦です。

二番目のドゥッカは、心に感じる苦です。

心に感じる苦とは、何でしょうか?

自分が、本当はこうあって欲しい、こうなって欲しいと思っているのに、人や物が、自分の思うようにならない場合、私達は不快を感じますね。

思い通りにならない物や人あるいは状況を、受け入れられない、受け入れたくない、と思うでしょう。

それが、心で感じる苦です。

また、身体に激しい痛みを感じる時、同時に、その激しい痛みに対して、非常に強い心の不快感を感じるのです。

これも、心で感じる苦です。

その時の心の不快感は、多くの場合、身体の痛みそのものより、ずっと大きいのです。

心で感じる苦、すなわち不快感は、パーリ語で、ドマナッサと言います。

ドマナッサを感じる時、私達の意識は、不善すなわちアクーサラの状態になっています。

以上、身体の痛み、そして心で感じる不快感、この二つが、私達が日常感じている苦、ドゥッカですね。

この二つの苦は、その原因さえ取り除かれれば消滅し、それ以上感じることはありません。

頭痛が止まれば、もう頭は痛くありません。

喧嘩をしている相手が、丁重に誤って来れば、怒りはおさまるでしょう。

でも、ドゥッカには、もうひとつ別のタイプのものがあります。

そして残念なことに、そのドゥッカは、どうやっても取り除くことはできず、その苦しみがおさまることはありません。

いったい、どんな苦でしょうか?

それは、私達の生存それ自体に内在している、生きている限り絶対に逃れることのできないタイプの苦です。

これを、行苦(ぎょうく)、サンカーラドゥッカ、と呼びます。

私達の生存それ自体に内在している苦、とはどんな苦でしょうか?

生きている限り、絶対に逃れることのできない苦、とはどんな苦でしょうか?

私は、この行苦、サンカーラドゥッカを、正しく皆さんにお伝えするために、これから何回かにわたって、苦全般について、詳しく解説していこうと思っています。

今日は、ほんの少しだけお話ししてみましょう。

人間を含め、一切の生命には、時々刻々、年をとっていく、老いていく、という宿命があります。

しばらくの間、その現実から目をそらすことはできるかもしれません。

しかし決して、その事実を消し去ることはできません。

整形手術をしても、ビタミン剤を飲んでも、時々刻々老いていくという事実を変えることはできません。

死ぬということについても、同じですね。

私達は誰ひとり、死を避けて通ることはできません。

このように、私達の生存それ自体に内在している苦、生きている限り、絶対に逃れることのできない苦、というのは私達にとって、まさに、なすすべが無い、解決することのできない、消し去ることのできない、非常に過酷な苦なのです。

お釈迦様が、苦、ドゥッカ、とおっしゃられる時、また、苦からの解放をお説きになられる時、お釈迦様は、このタイプの苦、すなわち行苦、サンカーラドゥッカについて、お話しになっておられるのです。

仏教の苦とは実は、私達の生存それ自体に内在している苦、生きている限り、絶対に逃れることのできない苦、すなわち行苦のことを指しているわけです。

そして、その行苦から自由になること、どうにもなすすべが無いこの苦から、完全に自由になること、それこそが、お釈迦様がお城を出られ、出家修行を始められた理由であり、仏教の最終目的なのです。

もう一度繰り返しましょう。

苦には、三種類あります。

身体で感じる痛み。

心で感じる不快感。

そして、私達の生存それ自体に内在していて、決して逃れることのできない行苦。

この三つですね。

今回は、このことをしっかりとおさえておいてください。

では、これから何回かにわたって、仏教の根本問題である苦、ドゥッカについて、皆さんと一緒に、しっかり勉強していくことに致しましょう。

以上
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