2016年2月18日木曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.034-Dukkha-4~十三種の苦 第3回~(podcastの音声から文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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前回、前々回と、十三種の苦の中の最初の九つ、すなわち、生、老、病、死、ソカ、パリデヴァ、ドゥッカ、ドマナッサ、ウパーヤーサ、についてお話してまいりました。

今回は、残りの四つ、すなわち、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦、についてお話致します。

では早速、怨憎会苦から始めましょう。

怨憎会苦とは何でしょうか?

日本では伝統的に、怨憎会苦とは、恨み憎しみ合う同士が会わなければならない苦のことであると言われています。

しかし実際は、人ばかりではありません。

お釈迦様は、見るもの、聞くもの、臭うもの、味わうもの、触れるもの、すなわち五門の対象となるすべてを含んで、解説されました。

お経で説かれていることを正確に訳せば、
不快で受け入れられない視覚対象、不快で受け入れられない声や音、不快で受け入れられない臭い、不快で受け入れられない味、不快で受け入れられない肉体感覚、そのような不快な対象を避けることができない、側にいて、感受しつづけなくてはならないような状態にあるとき、それを、怨憎会苦、アピエヒサンパヨゴ、と言う。
となっています。

さらに加えて、

あなたに損失を与えようとする人、嫌な思いをさせようとする人、危険な目に遭わせようとする人、そのような、自分に不利益や害を与えようとする人達に囲まれ、避けることができずに、相対さなければならないという状況にあるとき、それもまた、怨憎会苦、アピエヒサンパヨゴ、と言うのです。

総じて、あなたにドゥッカやドマナッサ、身体の痛みや、心の不快や苦しみを与えるような一切の対象から、逃げることができない状態、これを怨憎会苦と言うわけですね。

次は、愛別離苦です。

愛別離苦は、大乗仏教では普通、愛する人と別れたくないのに、別れなければならない苦しみ、というふうに言われています。

しかし実際には、魅力ある、楽しく、快い視覚対象、魅力ある、楽しく、快い声や音、魅力ある、楽しく、快い香、魅力ある、楽しく、快い味、魅力ある、楽しく、快い肉体感覚、そのような楽しく快い感覚を与えてくれるような対象が得られない、その感覚を感受することができない状態を、愛別離苦、ピエヒヴィパヨゴ、と言うのです。

さらに加えて、父や、母や、兄弟や姉妹、友人、同僚、親戚など、あなたに利益を与えてあげたい、楽しみや安楽を与えてあげたい、危険な目に遭わないようにと、心から願ってくれるような人達と、共にいることができない、離れて暮らさなければならない、という状態を、愛別離苦、ピエヒヴィパヨゴ、と言うのです。

そこには、今まさに別れるという、悲劇的行為によって生ずる悲しみや苦しみというニュアンスは、おそらく、ほとんど無いと思います。

むしろ、あなたにスッカやソマナッサ、身体の快感や心の喜びを与えてくれる一切の対象が、あなたの周りに無い、感受することができない、そのような対象と離れて存在しなければならない、という状態を愛別離苦と言うわけです。

次は、求不得苦です。

これは日本では、求めるものを得ることのできない苦しみと解釈されています。

これも、だいぶ違いますね。

お経では、
生、老、病、死、ソカ、パリデヴァ、ドゥッカ、ドマナッサ、ウパーヤーサ、怨憎会苦、愛別離苦、等の一切の苦から自由になりたいといくら望んでも、輪廻する有情は、それらの苦から、決して逃れることはできない、ただ望むだけでは、苦からの解放は得られないぞ。
と、説かれています。

つまり、求めるものが得られないと言うときの、求めるもの、とは苦からの解放を意味しています。

また、得られない、と言うのは、ただ望んでいるだけでは、苦からの解放は実現しないという意味になるわけですね。

ちゃんと仏教修行をして、ニッバーナを証悟しなければ、苦からの解脱は得られないぞ、とお釈迦様は教えてくださっているわけです。

それが、求不得苦、求めるものが得られない、という本当の意味なのです。

ですから求不得苦とは、苦からの解脱が得られない苦である、と言い換えても良いと思います。

この苦は、輪廻の生存に内在している苦、行苦、サンカーラドゥッカのことです。

ただ望んでいるだけでは、その苦からの解脱はできない、お釈迦様の教えの通り、八正道を修行し、涅槃を証悟しない限り、苦からの解脱は無い、と教えてくださっているわけです。

それでは、いよいよ最後の、五蘊盛苦です。

五蘊盛苦(ごおんじょうく)とは、五蘊(ごうん)には苦があふれている、五蘊は苦そのものである、五蘊は苦に他ならない、ということです。

では、五蘊とは何でしょうか?

五蘊とは、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの蘊(うん)、すなわちグループのことです。

五蘊についての詳しい解説は、今後の講義に譲りますが、ここでは、五蘊とは物質的現象と精神的現象の連続体として輪廻転生を続けている、私達の存在そのものと理解すれば良いでしょう。

つまり五蘊盛苦とは、物質的現象と精神的現象の連続体として輪廻転生を続けている私達の存在は、苦そのものであり、輪廻している限り、決して苦から逃れることはできないという意味になります。

お釈迦様はここまで、生、老、病、死、ソカ、パリデヴァ、ドゥッカ、ドマナッサ、ウパーヤーサ、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦と、様々なタイプの苦を解説されてきました。

これらの苦は、大きく三つに分けられます。

すなわち、身体の痛み、心の苦しみ、そして、輪廻そのものに内在し、私達、有情が決して逃れることのできない行苦、サンカーラドゥッカですね、これら三種類の苦があるわけです。

輪廻転生を続けていく限り、我々は、身体の痛みからも、心の苦しみからも、自由になることはできません。

たとえ、身体の痛みや心の苦しみを、しばし感じないことがあったとしても、それらの痛みや苦しみは、必ずまた再びやって来て、私達を苦しめることになるでしょう。

また、三番目の苦、五蘊そのものに内在する行苦は、輪廻している限り、決して逃れることはできません。

輪廻する有情である私達、五蘊の連続体である私達は、常に三種類の苦にさらされており、決して、これらの苦から自由になることはできません。

私達の存在とは、物質的現象と精神的現象である、五蘊の連続体に他ならず、それがまさに、苦で盛られているわけです。

五蘊盛苦とは、輪廻する存在は苦である、涅槃を証悟して輪廻から解脱しない限り、決してその痛みや苦しみから逃れることはできないという真理に他なりません。

以上で、お釈迦様がお説きになった、十三種類の苦の解説が終わりました。

次回からは、苦の真相をさらに深く理解するための分析法、七種の苦、についてお話していくことに致しましょう。

以上
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