2016年3月11日金曜日

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク-No.039-生きる技術と死ぬ技術-より善い転生を迎えるために第3回~四双八輩~(podcastの音声から文字起こししたもの)

これはpodcastの音声を聴いて文字にしたものです。誤字脱字があるかもしれません。見つけ次第訂正したいと思います。

すでに同じ音声の文字起こしをなさっている他の方がいらっしゃるかもしれませんが、無常の世の中、自然災害、事故、等なんらかの理由で、音声や文字で伝える幾つかのサイトが一度に失われてもおかしくありません。

そのような状況下でも、残っているサイトがあれば、貴重な教えを残すことができると考えて、自分も文字にしたものを掲載します。

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仏教の目的は、苦しみを無くしてしまうこと、そして、幸せになること、これに尽きます。

そのためには、より善く生き、より善く死ぬことを、学ばなければなりません。

そのためにこそ、仏教修行があるのです。

仏教修行の根本は、諸悪莫作、衆善奉行、悪い行いをなさず、善い行いをしよう、ということですね。

では、善い行いとは何でしょうか?

仏法僧を敬うことであり、布施の実践であり、戒律の護持であり、ダンマを学び、理解することであり、サマタやヴィパッサナーの瞑想修行を修めることに他なりません。

そのような善行を日々行い、積み重ねていけば、やがて苦しみが完全に消滅し、永遠の寂滅平安の境地である涅槃に至ることができます。

ですから究極的には、仏教の目的は、涅槃を証悟するということになります。
悪いことをせず、善いことを為して、できれば今生で涅槃を証悟したい。
もし今生で涅槃を証悟できないのなら、死後、できる限り善き境界に転生して、そこで引き続き仏教修行を継続し、仏教修行を加速して、できる限り早く涅槃を証悟したい。
これこそが、社会の中で日々の責務をきちんと果たしながら、仏教を信仰し、真摯に仏教の修行を続けている在家の修行者の皆さん共通の目的であり、願いです。

仏教とめぐり会い、修行を始め、ついに涅槃を証悟するに至る道筋には、いくつかの段階があります。

凡夫(ぼんぷ)、これはパーリ語では、プトゥジャナ、と言います。

凡夫というのは、煩悩がまだ根絶やしになっていない一般の人々、ゆえに涅槃を必ず証悟できるということが、まだ確定していない段階の人々を言います。

誰でも最初は、凡夫として修行を始めるわけです。

やがて、仏教修行がどんどん進んでいくと、少しずつ煩悩が根絶されてきて、まだ涅槃証悟そのものには至ってはいないけれど、近い将来、涅槃証悟が確実になってくるという段階に達します。

今回は、涅槃に至る聖者の四つのレベル、シュダオン(須陀洹)、シダゴン(斯陀含)、アナゴン(阿那含)、アラカン(阿羅漢)、についてお話し致しましょう。

私達誰もが生まれながらに持っている煩悩を、十種に分ける分類法があります。

これを、結(けつ)、結びという字を書いて、結と言います。

十種類あるので、十結(じゅっけつ)とも言います。

パーリ語では、サンヨジャナ、となります。

皆さんが一生懸命修行していくと、だんだん煩悩を根絶やしにできる段階に進んでいきます。

そして最初に、身見(しんけん)、疑惑(ぎわく)、戒取(かいしゅ)、という三つの結、三結(さんけつ)を根絶やしにする段階に到達します。

身見とは我見(がけん)とも言い、私というものがある、という誤った見解です。

これがあると、仏教の根本のひとつである、無我、ということを本当に理解することができません。

身見という煩悩が根絶されれば、無我を完全に知ることができます。

次の、疑惑、これは、疑い、ですね。

疑いとは何か?

ここで言う疑いとは、お釈迦様、お釈迦様が説かれたダンマ、お釈迦様のお弟子さんの集団であるサンガ、戒、定、慧、の三学、つまり、戒を守る修行と、禅定を得る修行、そして、智慧を得る修行、さらに、過去世、現世、来世、から成る十二縁起と、その駆動力であるカンマの法則、そして苦集滅道すなわち、苦についての真理、苦の原因についての真理、苦の滅尽についての真理、苦の滅尽に至る道についての真理、これらについて疑いを持つ、迷う、確信を持てない、ということになります。

この、疑(ぎ)、疑い、という煩悩、パーリ語では、ヴィチキッチャー、と言いますが、これも最初の段階で、根絶されるわけです。

さらにもうひとつ、戒取、これは、戒禁取(かいごんしゅ)とも言いますね。

これは、極端な戒律や、苦行、あるいは、特別な法要、呪文、修法、儀式、などが人の心を清めることができる、あるいはさらに、人を解脱に導くことができる、という誤った見解です。

これも、最初の段階で根絶されます。

最初の、我見という煩悩、そしてこの、戒禁取という煩悩、これはどちらも、ディッティ、という心所(しんしょ)から出てきます。

最初の段階で、このディッティという心所が、完全に根絶やしにされます。

この最初の段階、身見、疑惑、戒取、という三結が断ぜられた状態を、預流(よる)、流れに預かると書いて、預流と言います。

預流とは、聖者の流れに入る、もう凡夫には戻らない、というレベルです。

シュダオン(須陀洹)とも言います。

パーリ語では、ソターパンナ、と言います。

アビダンマでは、さらに詳しく、このレベルに達する瞬間を、シュダオンに向かう、ということで、シュダオン向(しゅだおんこう)、あるいは、預流向(よるこう)と言います。

向(こう)とは、向かうという字を書きます。

そして、その次の瞬間、すなわち、シュダオンのレベルに達した瞬間を、結果の果という字を書いて、シュダオン果、預流果、と呼びます。

シュダオンになると、もう二度と四悪趣に堕ちないということが確定します。

そればかりではなく、どんなに長くても、あと七回生まれ変わるうちに、涅槃を必ず証悟し、般涅槃(はつねはん)に入ることが確定します。

シュダオンになって、さらに一生懸命修行すれば、今生で涅槃を証悟する可能性も、もちろんあるわけです。

そうでなくても、来世あるいは来々世で、涅槃を証悟する。

どんなに怠けていても、七回目の転生には必ず涅槃を証悟する、ということが確定するわけです。

つまり、当選確実のバラの花が付くわけです。

ゆえに、聖者の流れに入る、預流、と表現されるわけです。

シュダオンの次の段階として、シダゴン(斯陀含)、一来(いちらい)とも言われますね、そのシダゴンというレベルに到達します。

パーリ語では、サカダーガーミーと言います。

この段階に至ると、欲貧(よくとん)、瞋恚(しんに)という二つの煩悩が、大幅に弱まります。

欲貧というのは、ロバ、貪り、の中でも欲界レベルのものですね。

これが、大幅に弱まります。

また、瞋恚、これは、怒り、不快感、嫉妬、もの惜しみ、後悔、このようないわゆるドッサの感情、これが大幅に弱まるということです。

大幅に弱まる、という意味は、貪りや怒りが心に生起しても、それが、言葉や行動を通して表現されることが少なくなるということです。

もし表現されたとしても、その度合いは、とても弱くなるということです。

また、貪りが雪だるま式に貪りを生んでゆく悪循環や、怒りが雪だるま式に怒りを生んでゆく悪循環が、もう起きないということです。

シダゴンになって、そのまま修行を続けていけば、もちろん今生で涅槃を証悟する可能性があります。

また、シダゴンのレベルで生命を終えた場合は、あともう一度だけ、人間界あるいは欲天界に生まれ変わり、そこでそのまま必ず涅槃を証悟すると言われています。

一度だけ戻ってくるということで、一来(いちらい)、一度来る、と書いて一来とも呼ばれているわけです。

シダゴンの場合も、シダゴンのレベルに達する瞬間を、シダゴン向あるいは一来向と呼び、次の瞬間、シダゴンのレベルに達した瞬間を、シダゴン果あるいは一来果と呼びます。

さらに修行が進むと、欲貧と瞋恚、すなわち欲界レベルの貪りと怒り、不快感、嫉妬、もの惜しみ、後悔などのドッサが、すべて完全に根絶されます。

このレベルになると、もう二度と人間界には戻ってきません。

今生で、そのまま修行を続け、涅槃を完全に証悟するか、涅槃を証悟しないまま亡くなると、死んだ後、梵天界、特に、浄居天と言われる特別な梵天界に生まれ、そこでそのまま涅槃を証悟します。

もう戻ってこない、ということで、不還(ふげん)と言われます。

また、アナゴン(阿那含)とも言われます。

パーリ語では、アナーガーミーと言います。

ここでも、詳細に見れば、アナゴン向または不還向、アナゴン果または不還果、という段階があります。

そして、いよいよ修行完成、すなわち、涅槃を証悟する段階に至ります。

煩悩で言えば、色貧(しきとん)、無色貧(むしきとん)、つまり一切の微細な貪りの煩悩が、完全に根絶されることになります。

また、掉挙(掉擧)(じょうこ)、心のざわつきですが、この煩悩も完全に根絶されます。

そして、慢(まん)、これはマーナという煩悩ですね、慢心などと言われ、基本的には、相手と自分を比較する煩悩です。

これも、完全に根絶やしになります。

そして最後に、すべての煩悩の根本である無明(むみょう)、これが完全に根絶されます。

この最終段階に達した聖者は、アラカン(阿羅漢)、パーリ語ではアラハン、と呼ばれることになります。

アラカンは、今生で死を迎えると同時に、輪廻が止まります。

死後、輪廻することは無く、絶対寂静のニッバーナに入ります。

般涅槃(はつねはん)に入る、と言いますね。

これが、仏教の最終目標です。

修行が、ここで完成するわけです。

お釈迦様と同じ境地に達することになるわけです。

この四つの段階、シュダオン(須陀洹)、シダゴン(斯陀含)、アナゴン(阿那含)、アラカン(阿羅漢)が、アリヤ、聖なる修行者、と言われる階梯です。

今説明したように、それぞれに、向と果、向かう瞬間と結果を結ぶ瞬間、がありますから、四つのペア、四双(しそう)であるところの八種類の人々、八輩(はっぱい)と言われます。

まとめて、四双八輩(しそうはっぱい)と呼ばれます。

四双八輩の最初の段階、すなわちシュダオンのレベルに至れば、聖者の流れに入り、遅くても七回の転生を経て、アラカンを証悟することになります。

ですから、今生でシュダオンに至る、預流果を証悟する、ということは、真摯に仏教修行をするすべての人々の大きな目標となるわけです。

次回は、どういう善行を行えば、どんな境界に転生できるか、についてお話ししてみたいと思います。

それでは又、お会いしましょう。

以上
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